ちょっと気になる子どもと子育て

こうして、K養護学校、N養護学校、市内のK小学校特別支援学級の各学校教職員、保護者、当事者から3年前に廃校になったHN高校跡地に養護学校の建設を求める実行委員会の報告が相次いだ。

なかでも、インパクト大きかったのは、小学4年生のY君(アスペルガーらしい?)が、直々に橋下府知事に訴えた請願書だ。
「養護学校を作ってくれないと困ります。
アメリカに追いつけません。
日本は遅れています。
大阪はお金がないので、集めたらいい。
お金を出さない人もいる。
だから、募金箱を全国に置かなくちゃ。」

40万人都市のふるさとにひとつも養護学校がない。
因みに鳥取市は60万人都市で、市内に11校もあると報告があって場内はどよめいた。

休憩時間を挟んで、第2部記念講演「ちょっと気になる子どもと子育て」
−笑顔が輝く子どもが学べる場のために−
講師は、池添 素先生(京都「らく相談室」)

池添先生は、京都の子ども相談では、非常に名高い方であることは知っていた。
この10年バーンアウトしながら、毎年職場を転々としてジリ貧生活を凌いできた。
もう5年前に遡るけど、越境して1時間以上かけて京都の療育施設にも勤務していたとき、
担当したアスペルガーと診断された男の子の保護者が、「らく相談室」で個別相談を受けていた。

池添先生は、相談員の傍ら、仏教大学や立命館大学で非常勤講師としても教壇に立ち、半生を障害児の保護者の子育て相談に応じてきた御方である。

専門家の講演内容は、聞きつくしてきたつもりだから、重複している内容は割愛して、池添先生ならではのメッセージを語録しておく。
○障害とは・・・本当は自分の力で解決したいけれど、自分の力だけでは解決できない問題
 自分でもわかりにくい発達の課題を残しながら育っていく

保護者の立場から代弁する内容だから、時にはこんな発言も。。。

「う〜ん、ここは学校の先生や保育士さんたちもいるからいいにくいんやけど、、、
熱心な教師・保育士ほど『今しておかないといけない』と親を脅迫して追い詰める。
子どもが先生の期待に応えようとどんなに無理してがんばっていることか、
その反動で家ではクタクタになってしまっている。死に物狂いで、朝から支度して通学してくる。
どんなにしんどくても、どんなに遠くても学校が好きだから。」

「震災後に、宝塚の通園施設を訪問したことがあった。
当時は、避難所として使ったが、幸いハードとしての通園施設があったから
被災者はそこで生活でき、施設も再開することができた。」

「私たちは22世紀は生きられない。
子孫に託す未来の地球はどうなっているか、大人の責任を感じている。」

ちょっと気になる子どもと子育て

ゆきんこのふるさとは、実は七夕発祥地として有名である。
私は、未だ生年月日が住民票に記載されたままのネイティブ市民を維持している。

天皇家の縁の地名も数多く、漢字伝来の町、菊の町としても名高い。
しかし、昨今は不名誉なことで有名になってきた。
昨夏は、10年市政を治めた市長が逮捕されたし、先月は殺人事件が起きた。

子ども時代は、東洋一の住宅群が立ち並び、生誕以来三越デパートも駅前にあった。
堤防からほど近い小学校には、障害児学級もあって休み時間にじっと
「自分とはなんだか違う子どもたち」の行動をなんとなく眺めていた記憶が蘇る。

通学路に寄り道してままごとに興じた蓮華の花咲く田んぼ道は第2次ベビーブーム世代に対応し、新設高校に姿を変えた。
新設されてから20年経過した今、同じ市内の別の公立高校は少子化のために廃校になった。

その廃校になったHN高校が、センセーショナルを巻き起こしているというのだ。
わがふるさとの不名誉は、私の子ども時代には先駆的と評されたわが町独特のノーマライゼーションが仇となって浮上した問題だ。

わが町は、40万人都市であるにもかかわらず、周辺の人口が少ない都市に当然に設置されているはずの養護学校がない。
障害児を抱える保護者たちが、この20年間養護学校新設を要請するためにマスコミにも働きかけ、署名運動を行ってきたにもかかわらず、行政が首を縦に振ることなく放置されてきた積年の問題だった。

明日から始まる洞爺湖サミットと七夕と合わせてリンクしてくる問題かもしれない。
つまり、弱肉強食の原理甚だしい卑近なわが町の現象と地球温暖化問題は関連しているだろう。

というわけで、昨日午後1時〜4時30分までHN高校跡地に特別支援(旧養護)学校の建設を求める実行委員会が主催する記念講演会を聴講してきた。

昨年は、大学院の所在する町に転居したけど、それが破綻して1年後。
再びパラサイトで戻ってきたふるさとは、年々住みにくさや息苦しさを実感してきたネイティブ市民として障害児教育の現状を見過ごすことはできなかった。

受付で所属を記入すると、受付の男性が言った。
「ほうほう、障害者授産施設の方ですか。なるほど、是非、聞いていただきたいです。」
会場4階の大研修室前方窓際には、お馴染みの議員団の皆さんが既に着席していた。
臨席の母が仄めかした。
「あの人、K議員よ。挨拶すれば?」
「えっ・・・いいわ。」
ここぞ、というときにヘタレ根性がわなわなとおこってくるからしょうがない。

今回のゆきんこの大学院修了以来のミッションは、手持ちの名刺を有識者に撒き散らすこと。

実行委員会の第1部は、専らの活動報告会。
ふるさとに養護学校がないために、長年、障害のある子どもたちは隣接都市まで越境スクールバス
通学を余儀なくされてきた。
受け入れ先の隣接都市の養護学校の教諭たちが次々と登壇し、持ち時間10分という限られた時間で現状報告を行った。

共通しているのは、少子化にもかかわらず、昨今10年間に障害児の児童生徒数は年々増加している。
医療ケアを要する重度重複障害児と、多動児との共存が困難であること。
特別教室を間仕切りしたり、廊下や玄関に荷物を並べても教室が足りない。
道具の準備・片付けに時間がかかる。介助員や管理職が総動員しても職員が足りない。
全ての児童がトイレが足りない、間にあわずに、失禁してしまうなど正に弱り目に祟り目と言わんばかりのアウシュビッツさながらの光景が想像された。

なんといっても、これらの子どもたちは、過去10年私が保育現場でかかわってきた子どもたちが、
そのまま小学校へスライドして過去からの諸問題を山積して現在にいたっている姿そのままだった。

この窮状を世に訴えるさまざまな取り組みを活動記録として資料配布されていたが、
驚いたのは、2007年6月26日〜2008年7月4日現在まで1ヶ月に8日のペースで定例の実行委員会、街頭宣伝、署名活動、議員申請を行ってきたことだ。

発起人の方々は、登壇の端々に「この市に養護学校がないことはあまりにも知られていなかった」と
述べていたことも印象的だった。









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はじめましてF先生

2007年4月13日に転居して、9ヶ月。
一年も経たないうちに、再び、実家に戻ることになった。
そもそもヘタレでパラサイト歴が恥ずかしくて言えないゆきんこおばさんは、
新天地での転職と社会人大学院生の両立生活に、結果としてまた失敗した。

10月5日づけで最寄駅前の専門学校の非常勤講師のポストを追われ、
それ以後は、論文作成に専念するために、クリスマスと年末年始を返上して年を越すことができた。

無事に論文を提出したら、プーおばさんが実家に帰るのは自然なオペラント行動だろう。
そのままでは、貯金の底をついていくのは時間の問題なのだから。
「ただ好きなだけじゃ、結婚できないの?」
「仕事がなくちゃ、結婚してはいけないの?」

10代の若人の台詞なら初々しいけど、白髪が生えてきたのならやっぱり発達的にも、
常識的にもおかしい。

おかしいけれど、日本の若者といえなくなった年齢に至ってもパラサイトしている人々は、
私だけではないはずだ。(と、自己弁護)


失敗だらけの半生は、大台に年齢更新した私を何となく逞しくさせたかもしれない。
それは、多分、「オバタリアン」というかつての流行語を連想させる。
ある意味での現代社会病理のマジョリティとしての一個人が、あるお悩みだらけの女性集団にでかけて個別相談したら、
「結婚もせず、大学院に進学するとは親不孝者!!私なら絶対あんたを赦さんね。」
と罵られた。
過保護なのは自他共に認めますが、実母にもそんなこと言われたことないよ・・・
しかし、育児ノイローゼや自殺未遂だったというスタッフの面々は笑顔で私を受け容れてくれた。

昨日も、午後から久しぶりに講演会に出かけた。
場所は、週3日出没している大学院。土曜日の日中は外部に一般公開され、特別講演も催されている模様。
私がF先生の存在を知ったのは、前回のアテネオリンピックに遡る。
端的に言って、F先生の自閉症のエキスパートとしての道のりは、私の過去と擦れ違っていた。
つまり、F先生はアテネオリンピックの時分、私が度々、愛憎の念を交錯させてきたI研究室で手塩にかけられた門下生であり、私が受験した時に研究したかったペアレントトレーニングの
先行研究の指南書を執筆していた。
F先生が自閉症児の一保護者として2000年に発足したNPOは、全国的にも名を轟かせABAの第1人者として臨床心理士の称号をもって活躍していた。

受験を決意した4年前、私が直にかかわってきた自閉症の保護者の願いとオーバーラップする。
「ゆきんこ先生、ABAの勉強したいなら、この本を参考にしてください。」
そして、誰かと結婚して幸せな家庭を築こうだなんていう甘い幻想を諦め、保護者の懇願を叶えたい一心で「つみきBOOK」と「MeBOOK」「わが子よ声を聞かせて」を読み、自閉症のお子さんの家庭訪問療育に介入しつつ、予備校に通って受験勉強にも励んだ。

F先生は、約50名参加者の顔触れを一望し、「どうやら初心者の方が多いようで安心しました。」
と冒頭述べて、自己紹介とABAの初歩的な概説を始めた。

「お風呂が好きな人はいますか?」
圧倒的多数の女性が挙手した。
「どうして好きなの?」
「きもちいいいし、リラックスするから」
「嫌いな人は?」
「めんどうくさい」
「私も子ども時代嫌いでした。家がビンボウで銭湯に行かなくちゃいけなかった。
母に連れられて女風呂に入るのが恥ずかしかったし、子どもって目線が下に向かうでしょう?
すると、髪の毛やフケが溜まっているのが目に付いて汚いな〜と思った。
母と銭湯に行ってもそのまま帰宅するのですが、たまに父と行くときには堂々と男風呂に入れるし、帰りがけに飲み物を買ってくれたので父と行くのは楽しかったです。父親ってたまに子育てに参加して美味しいところ取りしてますよね。」
私はひときわ大きく笑った。

ABAの解説は、私がプロの称号がないファンの段階である限り、ここではいちいち書かない。(書いても誰も読まない)

F先生のレくチャーは、既に4年前に独学の範疇にあるABA入門的なわかりやすい解説だったが、初心者にとっては、やはり新鮮だし、私自身が全くABAを知らずにうっかりはまった心境を改めて懐古し、郷愁をそそる場面でもあった。(そんなに旧くないかな)

後半、自閉症の女の子が観衆の中央に座らされ、セラピスト側の大人の指示に応じて
動作模倣や音声模倣を実演する姿に、複雑な心境になり、さまざまな子どもたちとの療育・保育の日々が蘇った。
若い日々を自閉症の療育指導に粉骨砕身した記憶は、思った以上に鮮明だ。
観衆の大半は、物珍しそうな好奇の目を一斉に幼い彼女に注いでいるのに、どうして私だけが白けてしまうのだろう。

この人だかりと笑みから、なんだかやっぱり木下大サーカスを想像するのは、私だけでしょうか?

「それでは、質問はありますか?」
「『笑う』という行動を強化するための具体的な指導はどのようになさっていますか?
私は従来、自閉症児の療育指導員でしたが、最近、緘黙症に関心をもっています。
『笑う』行動ひとつとっても、障害種別が異なれば、どんな障害にも通用すると謳われるABAもそのアプローチも違うと思いますが、先生の知見はいかがでしょうか?」
「どうしてあなたが自閉症の子どもに『笑う』という行動を獲得させたいと思い、質問したのか
不思議ですが、そうですね、観察してその子がどんなときに笑っているのかを調べ、それから
事前事後をどのようにセッティングするかプログラムします。緘黙症の場合は、社会不安が
あって緊張して笑えないのだから、リラクセーションだと思いますが。」

私はどこの誰だか知らない初対面であることを最近は活用するようになってきた。
これも生保レディ時代に鍛えられたお陰か、相手がよくわからないことは、返って
相手に対するイレイショナル・ビリーフ(歪んだ信念)の持ちようもないのだ。

もちろん、F先生がI先生の門下生で、I先生に類似したオーラを放っていることは、百も承知していた。

F先生の子ども時代のビンボウエピソードにも好感をもったので、参加者が帰った後も果敢に
アプローチしてみた。
4年前には、何度やってもI先生が畏れ多くて逃げ出してばかりいたというのに、、、
それも、私なりの純然たるアドヴォカシー精神がオペラント行動を突き動かしていた。
(BGMは、♪もえあがれガンダム)

「F先生、保護者主体のNPOのシステムをどのように開発されましたか?」
「主にはネットを使ったメーリングリストでの個別相談と、情報提供だね。でも、会員の回転は早いし、来るもの拒まず、去るもの追わずでやってますから。
あなた一人でそんな余計なお節介しているの?それより自分で生きていく手段を考えるのが先じゃないの?あなたの活動では生計が立てられないでしょう?」
「でも、日本では誰も見向きもしてくれないのです。緘黙症のことに・・・」
「小児神経医学会の駆け出しの研究者に要請してみてはどうだい。私のNPOも後援に専門家がいてくれて、アメリカのロヴァス博士の著作権を侵害しないしないように、私のオリジナルを加味してABAの家庭療育マニュアルを刊行しているんだ。この本だって、海外の博士のお墨付きを得たものだろう?」
F先生は、1ページ1ページ丹念に紹介した『場面緘黙児への支援』をめくって言った。
「もちろんそうです。でも、これ1刷だけではどうしようもないのです。学校現場はPDDでそれどころではないですし、ABAだって通用しないのが学校現場の現状ですから。」

私より先にF先生に不満をぶつけてきた母親の台詞は、保育現場にいたときから何も変わっていない。
「今年の校長はまだPDDのことを理解しようとしていたようですが、教頭がちっとも・・・」
F先生は母親を諭した。
「やっぱり、保護者だって譲歩したり、先生を信頼しようとする姿勢が大切だよ。お互いに信頼関係を結べないことが一番、子どもにとって弊害があるんだ。確かに叱ることでしか対応できない先生の方がずっと多い。実際、私は短大の講師だったから女子学生にほめことばより叱った方が効率よく場が静粛になることもわかっている。学校現場にも保護者として文句をいいたいことなんていくらでもあるけど、親だって演技力いりますよ。親だって先生だってPDDの子どもを取り巻く人々はみんなしんどいんだというところで、信頼しあう、お互いの辛苦を労う先生と保護者の信頼関係が大切です。」

信頼関係か・・・
そのことばも保育現場では、常に飛び交っていた。
私がかかわっていたのは就学前の自閉症幼児だから、数年後学校にスライドしたら問題はますますエスカレートしているのはありありと想像できた。
そして、大学院の全ての指導教官の疲労困憊の姿は3年間私の嫌子であり、ABAを研究したいという行動の消去を余儀なくさせたのだ。

つい20年前までは、自閉症が誰も見向きもしない障害種別だった。
今は、教育界で知らないでは済まされない障害だ。
でも古今東西、誰も見向きもしない見過されている問題に焦点を当てられるのが、マイノリティの醍醐味なのかもしれない。

どんな障害種別も克服できるという幸せのツールABAは、引き攣り笑顔と屈託のない笑顔をどのように行動形成するだろうか?

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独り暮らしは寂び楽し

今日から11月。
今日から再び、独り暮らしが始まった。

昨晩、家から最寄のバス停までPさんを見送った。
最終バスに乗り込んだPさんに手を振るのも、なかなか乙なものだ。

4月13日に転居して、50日くらいは段ボールも散材したところから始めたのだから、ちょっとくらいセンチメンタルになるのも秋らしくていいものだ。
秋は何かと外部イベントが多いので、ついつい気持ちがそそられて
本業であるはずの、そして、新年の抱負に北野天満宮にて絵馬に祈願した「修士論文完成」という最大の目的達成を後回しにして、
ついつい、先週家庭訪問でお試し契約してしまった
CO−OPの食べ物チラシに気もソゾロになってしまう。

「女心と秋の空」って言うしね〜・・・

平素は消化のよい質素倹約な和食を自炊していたが、
今朝、久しぶりにカレーを作って食べてみたらお腹の調子があんまりよくない。

一昨日、10月30日には、山奥のキャンパスに出かけた。
「山奥」って表現は、やはり語弊があるのかな?
本当は山を遥かに望む田園風景の清清しいところ、
と書いた方がいいかもね?

出かけた目的は、
「不登校児童生徒に関するネットワーク会議
リレー講座第5回不登校の心理療法(行動療法とカウンセリング)」
という講座を聴講してきた。

目下、修士論文完成もじわじわお尻に火がついてきたけど、
諸々の自分にあんまり関係なさそうなところに出没して、見聞を広めたいのがゆきんこ流。

第1部の基調提案は、
再登校ニーズに対する系統的個別支援方法の開発
講師は、宮崎大学教育文化学部教授 小野 昌彦先生

冒頭、小野先生は、留年しながら6年間博士課程を修めた。
「あの頃は(どの頃?)いい時代でした。」
当時、師事した行動療法の大御所 小林重雄先生との思い出話から始まり、赴任して一ヶ月ほやほやの宮崎のローカル話で会場をほんわかさせた。

「日々のあたたかい、何気ない ことばかけ
表裏のない人懐っこい子どもたち
マンゴーは高いけど
他の物価は安くて、降り注ぐ太陽の下、精神的に充実しています。
バスは土日はどこまででも100円。
車を使わず、バスで通勤しています。
阪大のランチバイキングは500円だけど、宮大は300円。

ピーマンが苦くない。ほんのちょっとしたことがストレス解消です。」

これから、中身に入るのに時間切れです。
学校へ行く支度をそろそろ始めないと・・・

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やらせではないタウンミーティング

土曜日の朝は、営業に出ようか出まいかとそわそわしているが、
実質、寛ぎモードに浸ってくるのは、土曜の夕刻から日曜の午前中まで

そろそろ、営業所に出発するべと思ったが、
外は、朝からしとしと雨模様。
夕方は★営業所ではすっかり擦れ違いのNさんが、夢にまで見ていた「佐世保バーガー」を食べに出かけようと、
ドタバタの3ヶ月前のノルマが課せられる以前から約束していたのだが、

Nさんは、最も期待の高い優秀な営業員故の過労や、更年期などが重なって、体調がなかなか回復しないようだ。
「佐世保バーガーは逃げていかないからまた今度にしよう」
と、返信メールに書いてあった。

17日土曜日は夕食までに今更遅いんだけどの、
残りの年賀状20数枚を書き上げて、夜更けになっても降り続いていていた雨のなかを、気分転換に投函しに行った。

改めて、長年ずっと年賀状を下さった友人・知人に思いを馳せてみた。
既婚者も、独身者もみんな幸せに暮らしているのかな?

夕食後、徐にお雛様を押入れから出してきて飾ることにした。
居間の本棚の一部は、通常みやげ物やら、母の粘土細工の手作り人形などで少女チックに溢れているが、
これらを一時、移動させて押入れからお雛様を出してきた。

わたしの誕生日が1月で、その2ヵ月後の3月に亡き祖父が買ってくれたものだ。
小さいお内裏さまとお雛さま2体だけの立ち雛で、顔立ちも古風だけど、従姉の持っているガラスケースの3人官女付よりも、
「ゆきんこにそっくり」
のところが気に入っている。

また、銘柄は真多呂作で、実は古今人形の名手による作品だから、
案外と、オークションではいいお値段だろうと推測できる。
そういうわけで、誰にも無価値な希少価値が、私の宝物。

それから、昨夜からはじまった土曜ドラマ『ハゲタカ』をBGMに
20日火曜日のゼミに備えて、今まで書き溜めたデータのメモをワードに
転記する作業。

日曜の午前中はだらだらと過ごして、遅い朝食後に台所をちょっと掃除した。(しかし、瞬く間に汚れてしまう)
正午はNHK喉自慢を横目に、久しぶりにブログを梯子したり、
Oちゃんにメールを書いたり、1日2ページの原著音読したりと、
のほほんとしていた。

「そろそろ出かけよう。」
午後1時半に着替えて、老いた母と半分おばさんの娘が出かけた先は
自転車で5分のT保育所。

定刻の2時まで時間つぶしに、初めて足を踏み入れたこの施設を
じっくり見物させていただいた。
何を隠そう、このT保育所の四半世紀の歴史を具に知っているのは、
母と私と、そこに集合した初老の面々方だった。

元々は第2次ベビーブーム期の25年前、公私の認可保育所に入れなかった産休明けの待機乳幼児を受け入れるために、始まった草の根運動から
生まれたボロボロっちい簡易保育所に端を発している。

それから署名を集めたり、庶民のなけなしの募金や収益金を寄せ集めて
認可のT保育所が完成したのは、3年前のことだった。
私は、母のコネクションでこの保育所の採用試験も受けたのだが、
どういうわけか、やっぱり不採用になった・・・
という経緯があった。
長年、母の同僚だったIさんは、悠々自適のダンナさんの年金で
特別生活に困っていないのに、保育所の職員で、余暇には日本舞踊に
つぎ込むお金だってたくさんあるのに・・・

ゆきんこは、老いたる母を扶養しながら結局行かず後家のまま、
今また、失業寸前の苦境に追い込まれていた。

スタッフのIさんが、案内してくれた。
「へ〜、ピカピカで綺麗だね。」
「収納庫の道具や機材も公立よりもずっといいじゃない。」

1階から3階までピカピカの園舎の設備をくまなく拝見して
午後2時
「要求や質問を持ち寄ってタウンミーティング」が始まった。

内容は、
困っていること、悩んでいること、何とかして欲しいこと、
公共団体や自治体に要望して欲しいこと、みんなに聞いて欲しいこと
などを持ち寄って、地域の市会議員、元H市職員のN氏(40代)に
ぶちまけようというもの。

はじめに、N議員からパワーポイントを使っての、市民アンケートの報告があった。

それは、資料を基に後ほど付記するとして、
ゆきんこにとっては、生涯忘れられない、憤懣やるかたない思いを
今こそ、ぶちまける好機(?)を得たり!!

いつもは、至って温厚なんだけど、
ゆきんこは、長年そんじょそこらの凡人に比べたら、
のほほん顔には似合わない辛苦を舐めてきた半生を自負してきた分、
自分でも信じられないくらい豹変してしまうことがある。

だから、それを間のあたりにした数少ない人々は、
私の言動に、顔を一瞬にして曇らせてしまう。
だから、N氏の場合も同様で、ぶちまけた後に
「な〜んだ、お前もノーリアクションかよ」
・・・と白々しくなってしまうのだ。

具体的には、既にブログを立ち上げて以来その日、その瞬間をしたためてきたことに過ぎないのだが。
そういえば、受験合格を果たした翌年の2005年2月当時のことが
蘇った。

「市政がこれまで改革という名のもとに行ってきたことを、
私は、2004年当時から複数の医療福祉施設をアルバイトの非正規雇用者として、具に体験してきました。
今まで、交通安全管理について議論が為されてきましたが、
他の行政についても、同様のことが言えます。
つまり、市民が数名、「ここは危ないよ。これはよくないよ。」
などと些細な、困ったことを自治体に訴えても、それが大事になったり、事例数を束ねない限りは、重い腰を上げて対策を立てたり、解決しようなどとしない。一事が万事、事件や事故になってから、あとの祭りで誰かが大きな犠牲を払わない限り、善処しようとしないお役所の悪しき体質を目の当たりにしました。

私は生まれ育ったこの町で、自分の専門分野である障害児保育に
アルバイトでも、薄給でも構わないから貢献したいと思ってきました。
しかし、市の臨時職員として転々とするなかで、唖然としたのは、
こうした弱い中途半端な立場の職員の処遇が劣悪なばかりか、
尻拭いさせるだけさせて、都合が悪くなるとお払い箱にしてしまうというシステムそのものでした。

例えば、私は市民病院の第1号小児科病棟保育士として勤務しました。
当時は、医療裁判や管理体制などの問題が浮上するなかで、
「ヒヤリ・ハッと報告書」が実施されていました。
悪しきイメージを刷新すべく、お試しモルモットのように
私のファイルが廻ったのです。

また、就学前障がい児施設のS園においては、たったの3ヶ月契約の私を
園長が呼び出し、解雇を言い渡されました。
大学院にまで進学し、最も効果があるとされる最先端の行動分析学を現場で当事者の方々に役立てたいと思っても、
それが園長や主任の反感を買い、
「ここでは、ABAはできません。他でやってください。」
と言われたのです。
他にも類似した嫌がらせで、退職に追い込まれた人もいると聞いたので
なんと空恐ろしいことかと思いました。

その窮状をN議員に訴えたにもかかわらず、動いてくれなかったので、
私は、半強制的に辞表を書かされたのです。」

「当時の園長はI氏ですか?」
「はい。その後、あからさまなパワハラにハローワークや労働監査基準局、弁護士さんにまで掛け合いました。けれども、有形無形のパワハラは、提訴する場合、しかも被告はこの場合、市長になるので結局、実証が難しく勝ち目はないと、泣き寝入りせざるを得ませんでした。」

「もういい。気が済んだでしょう。」
母が横槍を入れた。

いいえ。泣き寝入りで善処されるなら、そのままでも何も言いません。けれども、私だけではないのです、泣き寝入りを強要された数々の
方々が結局、格差社会の負け組を担わされているのですから。」

N議員は黙り込んだ。

「N議員、どうお考えでしょうか?私は最終的には、K課長の呼び出しまで受けて、『あなたは保育士には不適任ですから転職すべきです。H市ではあなたの理想の保育はできません。他市でやってください。』と
まで言われたのです。私はK課長の職務濫用にもさることながら、
自分の故郷を掌る市職員の人徳のなさに、憤懣やる方ない思いでいっぱいでした。」

「あのK氏は今はもう保育課長ではありません。元々保育のことなんて何もしらないんだ。」

「私は言ったんです。こんなずざんな保育をしている町に、保育士である前に、生まれ育った市民として安心して子育てができないし、
自分の夢を自分の町で叶えられないなんて、次世代の目の前の子どもたちにはそんな悲しい思いをさせたくない。すると、K課長は
『夢なんて子どもみたいなことを言うな』と言いました。
なんという人がヘッドなのだろう。自分だって幼いわが子を市の保育所に預けているのに、わが子にも同じことを言うのだろうかと耳を疑いました。

そういうわけで、私はこのことがすっかりトラウマとなり、
以来、保育畑から遠ざかりました。復職を躊躇うほどの心理的な痛手を受けたのです。
市民を辞めようとさえ思ったほどです。」

N氏はコメントした。
「まずは、非正規雇用者という身分です。何を言っても聞き届けない、
管理職にとって自分たちにとって都合が悪いと判断された雇用者は、容赦なく泣き寝入りさせられるでしょう。そもそも、次世代を担う子どもに貢献する保育士などの専門職をそのような劣悪な処遇にしていることが、市政として間違っています。
また、私も市会議員の前は市職員でしたが、職員間での派閥や諸々の因縁は確かにあって、その延長上にあなたのようなアルバイト雇用者が、
最も犠牲を払いやすいのです。

S園については、いわく因縁のあるややこしい施設だと聞いています。
職員間でもいがみ合ったり、ギクシャクした人間関係ですから、
護らなければならない子どもの世界にもそれが波及していることは、不安もひとしおでしょう。」
「ハイ。」
私は深く頷いた。

ミーティング終了後、N氏は私に話しかけようとしなかった。
寧ろ、よそよそしかったくらいだ。

私は、構わない。
私を信じ、受け入れ生き生きとさせてくれる時空間を提供してくれる
「環境」を保障してくれる、誰かが、何かが存在してくれたら・・・

「ABAに被れるな」と言われても、
保育の世界で、誰も彼もが信じられなかったひとりぼっちの私には、
I先生のお助け入門書が、私のお守りだったんだ。

T保育園の玄関で、母の元同僚だったという、初対面のHさんと話した。
「私、ずっとこの町で母と二人で生きてきたけど、
母以外の人を誰も信頼できなくて、いつまでも家を出られないのかもしれません。もうすっかりいい大人なんですけどね・・・」


その唯一無二の母親さえ、信じられないという苛め抜かれた子どもたちが増殖されている日本社会に、明るい未来はあるでしょうか?
I助教授とも、ギロンしたいお題目です。

自分の人生は不遇に次ぐ不遇で、親不孝ばかり。
だけど、私は腐りそうになるココロを戒めて、自転車を停めた。
ご利益のあった、Iさん宅前の祠の中でひっそりと微笑むお地蔵さんに
手を合わせた。
「合格しますように!」

それから、初詣以来、誰もいないK神社の鈴を鳴らした。
「合格しますように!」

初めての飼い主さんやワンコたちともコミュニケーションを楽しんだ。
99%の出会いは、通りすがりに終わってしまう。


私には有難いことにコトバがある。
時にはやさしく、時には辛辣に自分の行動や感情や思考・心情を
コトバに文字に置き換える。

それは、きっと誰かの目に留まり、何かを伝えているだろう。
たとえ、1パーセントでも0ではない。