お盆らしいお盆
実感はまるでないけど、一応新婚さんのゆきんことPさん
戦没者追悼式典も終わった午後、のんびりとした盆休みの3日目を迎えている。
母はタイムリーに「靖国」という映画鑑賞に出かけた。
終戦当時、10歳だった母には戦争は忘れられない過去とあって、オリンピック中継よりも
戦争もの番組に見入っている。
かたや、別居のPさんはどうやら自分との戦いの真っ最中のようだ。
携帯で「うちにきますか?」と誘ったところ、あっさり断られた。
昨年、確か盆休みらしい盆休みはなく、週3日の非常勤だった。
仕事内容は何をしていたのか覚えていない。
今年は、とりあえず人並みに3日間の盆休みと土日で5連休になった。
1日目の13日には午後から婚家のPさん宅へ出かけて、お墓参りに参上した。
ちょうどPさんのお祖父さんが他界されて30周年の命日だそうだ。
お墓に参る前に、応接間で若かりし頃のお祖父さんのモノクロ写真を拝見した。
もう一枚は、お祖母さんが嘗て東京の一等地でサンゴ宝石店を営んでいた頃の資料を見せていただいた。
お祖母さんは付近のケアハウスに入居していらっしゃるとのことで、墓参りの後に結婚の報告に出かけるのが、スケジュールとなった。
お墓参りの前にPさんがLIVEで女子バドミントンの試合を見たいというので、応接間で視聴した。
スエマエが韓国ペアと対戦したが、敗れた瞬間、Pさんもガックリきていた。
それから、お義母さんの準備を手伝って4人でお祖父さんの眠る墓地へ向かった。
見晴らしのいい小高い新興の墓地からは、隣町のH市から河川の向こうの山々まで一望できた。
お祖父さんの眠るお墓にPさんと並んで手を合わせて拝んだ。
続いて、ケアハウスのお祖母さんを訪ねた。
お祖母さんもケアハウスに入居されてまだ半年も経っていらっしゃらないのだが、
職員が親切で優しいので、快適に生活されているとのことだった。
お祖母さんの部屋壁には、宝石商時代の写真が飾られ、昔の思い出話も聞かせていただいた。
「そんな話じゃなかったでしょう。」
とお義父さんがお祖母さんの話を訂正した。
「認知心理学の本には、記憶の変容について書いてあったよ。これだな。」
高齢者福祉施設には、意外とご縁のなかった私には、ケアハウスの雰囲気も興味の対象だった。
入居者の半数以上は女性が占めているから、食堂や廊下のカーテン模様も花柄が目立った。
1階デイケアルームの入り口には、電動乗馬セラピーの機械も設置されていた。
玄関には、セキセイインコとイヌのももちゃんも飼育されていて、アニマルセラピーも活用しているらしかった。
午後6時には再びPさん宅に戻って、お義母さんの夕餉の支度を手伝うことになった。
「今までは誰も手伝ってくれなかったでしょう・・・」
しかし、ヨメ意識など微塵もない私が手伝いになるのか、足手まといになるのか、
おしゃべりの方が多くなってしまい、いつもより晩御飯の時間は遅くなってしまった。
私が今の職場で仕事を長続きさせられそうもないことを婚家も気にして聞いてくれる。
「結婚してもしなくても、仕事はもちろん続けます。だけど、自分のキャリアを振り返り、
仕事を選びなおす上で安定していて長続きすることが大切だと思うんです。
Pさんとも早く一緒に暮らしたいです。」
食卓に沈黙が流れた。
話題は、自動車運転免許の条件や「紅葉マーク」で盛り上がり、午後9時過ぎに退席した。
「最後にちょっと見せたいものがあるの。」
最寄り駅に車が着いた途端、思い出したようにリュックからオレンジの分厚い専門本を取り出した。
「これが、元祖スキナー博士の名著。翻訳者には、F先生の名前もあるでしょう?
アテネオリンピックの時に、紀伊国屋で立ち読みしてたのだけど、その時には全然わからなかった。
受験のときからもっと簡単なABAの入門書やK先生が監訳された本から読み進めて今、原著の訳本を読んでみると、なんとか読めるようになったな〜。」
「へえ、もう修了したのに、まだ専門書読んでるなんてすごいな。」
「やっぱり、まだ被れてるんだね。」
Pさんと手を振って別れたはいいが、お義母さんのお土産を車に置き忘れてしまった。
戦没者追悼式典も終わった午後、のんびりとした盆休みの3日目を迎えている。
母はタイムリーに「靖国」という映画鑑賞に出かけた。
終戦当時、10歳だった母には戦争は忘れられない過去とあって、オリンピック中継よりも
戦争もの番組に見入っている。
かたや、別居のPさんはどうやら自分との戦いの真っ最中のようだ。
携帯で「うちにきますか?」と誘ったところ、あっさり断られた。
昨年、確か盆休みらしい盆休みはなく、週3日の非常勤だった。
仕事内容は何をしていたのか覚えていない。
今年は、とりあえず人並みに3日間の盆休みと土日で5連休になった。
1日目の13日には午後から婚家のPさん宅へ出かけて、お墓参りに参上した。
ちょうどPさんのお祖父さんが他界されて30周年の命日だそうだ。
お墓に参る前に、応接間で若かりし頃のお祖父さんのモノクロ写真を拝見した。
もう一枚は、お祖母さんが嘗て東京の一等地でサンゴ宝石店を営んでいた頃の資料を見せていただいた。
お祖母さんは付近のケアハウスに入居していらっしゃるとのことで、墓参りの後に結婚の報告に出かけるのが、スケジュールとなった。
お墓参りの前にPさんがLIVEで女子バドミントンの試合を見たいというので、応接間で視聴した。
スエマエが韓国ペアと対戦したが、敗れた瞬間、Pさんもガックリきていた。
それから、お義母さんの準備を手伝って4人でお祖父さんの眠る墓地へ向かった。
見晴らしのいい小高い新興の墓地からは、隣町のH市から河川の向こうの山々まで一望できた。
お祖父さんの眠るお墓にPさんと並んで手を合わせて拝んだ。
続いて、ケアハウスのお祖母さんを訪ねた。
お祖母さんもケアハウスに入居されてまだ半年も経っていらっしゃらないのだが、
職員が親切で優しいので、快適に生活されているとのことだった。
お祖母さんの部屋壁には、宝石商時代の写真が飾られ、昔の思い出話も聞かせていただいた。
「そんな話じゃなかったでしょう。」
とお義父さんがお祖母さんの話を訂正した。
「認知心理学の本には、記憶の変容について書いてあったよ。これだな。」
高齢者福祉施設には、意外とご縁のなかった私には、ケアハウスの雰囲気も興味の対象だった。
入居者の半数以上は女性が占めているから、食堂や廊下のカーテン模様も花柄が目立った。
1階デイケアルームの入り口には、電動乗馬セラピーの機械も設置されていた。
玄関には、セキセイインコとイヌのももちゃんも飼育されていて、アニマルセラピーも活用しているらしかった。
午後6時には再びPさん宅に戻って、お義母さんの夕餉の支度を手伝うことになった。
「今までは誰も手伝ってくれなかったでしょう・・・」
しかし、ヨメ意識など微塵もない私が手伝いになるのか、足手まといになるのか、
おしゃべりの方が多くなってしまい、いつもより晩御飯の時間は遅くなってしまった。
私が今の職場で仕事を長続きさせられそうもないことを婚家も気にして聞いてくれる。
「結婚してもしなくても、仕事はもちろん続けます。だけど、自分のキャリアを振り返り、
仕事を選びなおす上で安定していて長続きすることが大切だと思うんです。
Pさんとも早く一緒に暮らしたいです。」
食卓に沈黙が流れた。
話題は、自動車運転免許の条件や「紅葉マーク」で盛り上がり、午後9時過ぎに退席した。
「最後にちょっと見せたいものがあるの。」
最寄り駅に車が着いた途端、思い出したようにリュックからオレンジの分厚い専門本を取り出した。
「これが、元祖スキナー博士の名著。翻訳者には、F先生の名前もあるでしょう?
アテネオリンピックの時に、紀伊国屋で立ち読みしてたのだけど、その時には全然わからなかった。
受験のときからもっと簡単なABAの入門書やK先生が監訳された本から読み進めて今、原著の訳本を読んでみると、なんとか読めるようになったな〜。」
「へえ、もう修了したのに、まだ専門書読んでるなんてすごいな。」
「やっぱり、まだ被れてるんだね。」
Pさんと手を振って別れたはいいが、お義母さんのお土産を車に置き忘れてしまった。
はじめましての親族会
結婚して4ヶ月が経過した。
うだるような猛暑の3連休の中日の昨日午後
1時から4時すぎまで、P家の親族会に出席した。
出席した親族はP家の人々が9名、ゆきんこの親族が5名
Pさんのご両親の主催で、親族同士の親睦を深めようという目的で行われた。
挙行にあたり、殊にP家では過去から現在に至る諸々の清算の意味合いも込められた親族会となったようだ。
ゆきんこの親族も同様で、2000年以降喪服づきあいが主で、従姉妹のKさんが2児の母になったことくらいだろうか。
激減した私の親族の参加者は、母の長姉、母の次姉の娘婿(義理の従兄弟)Yさん、母の妹、母、私
地元の商工会議所の道路を隔てた向かいの料亭に定刻よりも早めにロビーに集まった初対面のPさんの弟夫婦と叔父さん叔母さんにまずは一礼してご挨拶した。
「はじめまして。ゆきんこです。」
「ゆきんこさん、事前に打ち合わせしておこう。」
「はい、お義父さん」
意気揚々と張り切っているPさんの御父さんが(一応)新婦の私に耳打ちした。
私は母の姉妹が集まるソファに連絡事項を伝えた。
「Yさんをどうやって紹介したらいいのかな?」
「そのままでいいですよ。」
「2番目の姉の娘の婿」
「私が6歳のとき、結婚式でブーケを渡しました。」
「そうそう。」
「随分長いおつきあいですね。まさか、私が結婚するなんて思わなかったでしょう。」
「いや、いつするのかな〜と思っていたよ。なかなかいい男じゃないか!」
「でしょ?前に青い英語の原著を紹介したこと覚えていますか?あの本を日本語版にするために彼が貢献したのです。新刊して今日でちょうど1周年なんです。」
「ああ、あの英語の本を彼がね。で、今どこに住んでるの?」
「双方の実家で週末婚ですよ。といっても、土曜日の午後から数時間程度。
新しい苗字で名刺も作ったので是非、アクセスしてください。」
元公立中学校校長で、海外勤務経験もあるYさんも名刺を私にくださった。
「今は、ここでヤクザな仕事をしています。」
その肩書きは中高一環の私学のリクルーターだ。
教育関係者の何気ないことばは危険だ。
けれども、母も私も縁続きのYさんの教育界における実績が、Pさんの前途を後押しするのに強力な
助っ人になりそうだと予感していた。
しかし、そもそも人付き合いの苦手なPさん
こういうかしこまった礼服つきあいは一番苦手で逃げ出したいシチュエーションと想像された。
親族といったって初対面では打ち解けるのに今すぐってわけにはいかない。
「去年、一緒に暮らし始めたときには、Pさんは六甲山かどこかの山に登って二人だけで結婚式をするのが理想だと言っていたのですが、結局はそうはならなくて・・・」
両親族ごとに「祝い鶴」というお菓子と抹茶をいただいて、4階の予約室へ移動した。
縦長のテーブルに向かい合い、年功序列で親族が向かい合って着席し、末尾はPさんのご両親という
位置に勢ぞろいした。
双方の親族を紹介し、Pさんがご挨拶
「先輩である皆さんに教えていただき、温かい家庭を築きます。」
多くの新郎新婦が親族の前で、当たり前に宣誓するのだが、
私の場合、自分自身が主人公とか、慶びごとの席にいることにものすごく違和感があった。
「温かい家庭ってなんだろう???」
私の親族は存命者よりも他界した人々の方が多くなってしまった。
その死に様には大なり小なりの憂いが残っていたし、生き残った親族は私とPさんの行く末を案じて
いることがわかっていた。
その最大の理由は、Pさんの現在の境遇が両親が結婚した当時の状況に類似していることにあった。
特に母より10歳年上の大正生まれの長姉のSさんは、15歳にして妹たちの母親代わりを務めてきた。
Sさん自身の結婚も決して順風満帆ではなく、夫が失業中には生活に困ったらしい。
また、母は父と結婚したくなかったのに、母親代わりのSさんが父との結婚を推したので、
結果、母と私に労苦をかけたことに罪悪感をもっているようだった。
結婚相手次第で女性の後半生が左右されることをゆきんこの叔母たちは明言しないが、心配してくれているのだ。
「ゆきんこさん、今はどんなお仕事ですか?」
向かいに面して座ったPさんの2人の弟のお嫁さん同士で談話した。
「障害者の方々と一緒に働き、支援する施設です。私の担当は重度の方で視覚障害もあって結構大変です。それ以前は障害児さんの保育士でした。」
「保育士さんの方があっているんじゃありませんか?」
「その方がキャリアは長かったからね。でも、保育士の方が楽かといえばそうでもないですよ。
私は4歳児クラスが多かったけど、けんかや物の取り合いが多くて仲裁するのはとてもストレスフルだった。おまけに子どものけんかに親が出るとますますややこしくなってその方がしんどかったですね。」
P家にとっては、間もなく3歳になる姪御さんのYちゃんが唯一の子どもで、彼女に大人たちのの視線が一挙に集中攻撃だった。
最近の少子化のなかで育った子どもたちは否応なく大人の溺愛や慰めの対象になるらしいし、
初対面の嫁同士の場合、話草にはYちゃんがもってこいだったので親睦の第1歩にはなったようだ。
途中、お義父さん詩吟やお義弟さんの「千の風になって」が披露されたのだけど、
それにもかかわらず、一見和やかな親族会が私にとっては幻のように感じられた。
夕方、ゆきんこの親族は早々に立ち去りそれぞれの居宅に帰っていったが、
Pさんの家族と、ゆきんこ、母がロビーでしばらく立ち往生となった。
Pさんの弟さんが疲れてダウンしてしまったのだ。
「ゆきんこさん、どうする?今から実家に来る?」
「・・・いいよ。私はもう帰るね」
「じゃあ、家まで車で送ろうか?」
「今から母と買い物に行くの。それからバスで帰るから。ありがとう。」
誰のせいでもないけど、P家の団欒に加わるにはその瞬間に躊躇いがあった。
母と私だけの寂しい母子家庭で育ったのだから、
やっぱり自然、私はPさんとPさんの一族と過ごすよりも母を独りにしたくなくて、帰ることにした。
子ども時代の原風景が蘇った。
両親の離婚後も父の姓を名乗り続けてきた私に、両親族に対する帰属感を持てずにいた。
私が親族の一員として認められていたと自覚したのは、Pさんと結婚したからだ。
親族間のみにくいあひるの子
子ども時代の原風景は、結婚してもしなくても痛くも痒くもない状態を維持しておきたいという
心の防衛線を張っていた。
そして、明らかにPさんの生家と私の生家や家族感覚のズレを感じていた。
そのズレというのは、私の場合、Pさん自身と結婚したと思っていたのだか、
Pさんの家族の一員になったという自覚がまるでなかったことにようやく気づいたからだった。
Pさんも私もパラサイトシングルと何も変わらない暮らし振りだ。
誰もがPさんと私の奇妙な結婚にノーコメントだった。
きっとPさん一家は、名ばかりの新妻などいなくても元の家庭の温かさや明るさを取り戻していけるだろう。
うだるような猛暑の3連休の中日の昨日午後
1時から4時すぎまで、P家の親族会に出席した。
出席した親族はP家の人々が9名、ゆきんこの親族が5名
Pさんのご両親の主催で、親族同士の親睦を深めようという目的で行われた。
挙行にあたり、殊にP家では過去から現在に至る諸々の清算の意味合いも込められた親族会となったようだ。
ゆきんこの親族も同様で、2000年以降喪服づきあいが主で、従姉妹のKさんが2児の母になったことくらいだろうか。
激減した私の親族の参加者は、母の長姉、母の次姉の娘婿(義理の従兄弟)Yさん、母の妹、母、私
地元の商工会議所の道路を隔てた向かいの料亭に定刻よりも早めにロビーに集まった初対面のPさんの弟夫婦と叔父さん叔母さんにまずは一礼してご挨拶した。
「はじめまして。ゆきんこです。」
「ゆきんこさん、事前に打ち合わせしておこう。」
「はい、お義父さん」
意気揚々と張り切っているPさんの御父さんが(一応)新婦の私に耳打ちした。
私は母の姉妹が集まるソファに連絡事項を伝えた。
「Yさんをどうやって紹介したらいいのかな?」
「そのままでいいですよ。」
「2番目の姉の娘の婿」
「私が6歳のとき、結婚式でブーケを渡しました。」
「そうそう。」
「随分長いおつきあいですね。まさか、私が結婚するなんて思わなかったでしょう。」
「いや、いつするのかな〜と思っていたよ。なかなかいい男じゃないか!」
「でしょ?前に青い英語の原著を紹介したこと覚えていますか?あの本を日本語版にするために彼が貢献したのです。新刊して今日でちょうど1周年なんです。」
「ああ、あの英語の本を彼がね。で、今どこに住んでるの?」
「双方の実家で週末婚ですよ。といっても、土曜日の午後から数時間程度。
新しい苗字で名刺も作ったので是非、アクセスしてください。」
元公立中学校校長で、海外勤務経験もあるYさんも名刺を私にくださった。
「今は、ここでヤクザな仕事をしています。」
その肩書きは中高一環の私学のリクルーターだ。
教育関係者の何気ないことばは危険だ。
けれども、母も私も縁続きのYさんの教育界における実績が、Pさんの前途を後押しするのに強力な
助っ人になりそうだと予感していた。
しかし、そもそも人付き合いの苦手なPさん
こういうかしこまった礼服つきあいは一番苦手で逃げ出したいシチュエーションと想像された。
親族といったって初対面では打ち解けるのに今すぐってわけにはいかない。
「去年、一緒に暮らし始めたときには、Pさんは六甲山かどこかの山に登って二人だけで結婚式をするのが理想だと言っていたのですが、結局はそうはならなくて・・・」
両親族ごとに「祝い鶴」というお菓子と抹茶をいただいて、4階の予約室へ移動した。
縦長のテーブルに向かい合い、年功序列で親族が向かい合って着席し、末尾はPさんのご両親という
位置に勢ぞろいした。
双方の親族を紹介し、Pさんがご挨拶
「先輩である皆さんに教えていただき、温かい家庭を築きます。」
多くの新郎新婦が親族の前で、当たり前に宣誓するのだが、
私の場合、自分自身が主人公とか、慶びごとの席にいることにものすごく違和感があった。
「温かい家庭ってなんだろう???」
私の親族は存命者よりも他界した人々の方が多くなってしまった。
その死に様には大なり小なりの憂いが残っていたし、生き残った親族は私とPさんの行く末を案じて
いることがわかっていた。
その最大の理由は、Pさんの現在の境遇が両親が結婚した当時の状況に類似していることにあった。
特に母より10歳年上の大正生まれの長姉のSさんは、15歳にして妹たちの母親代わりを務めてきた。
Sさん自身の結婚も決して順風満帆ではなく、夫が失業中には生活に困ったらしい。
また、母は父と結婚したくなかったのに、母親代わりのSさんが父との結婚を推したので、
結果、母と私に労苦をかけたことに罪悪感をもっているようだった。
結婚相手次第で女性の後半生が左右されることをゆきんこの叔母たちは明言しないが、心配してくれているのだ。
「ゆきんこさん、今はどんなお仕事ですか?」
向かいに面して座ったPさんの2人の弟のお嫁さん同士で談話した。
「障害者の方々と一緒に働き、支援する施設です。私の担当は重度の方で視覚障害もあって結構大変です。それ以前は障害児さんの保育士でした。」
「保育士さんの方があっているんじゃありませんか?」
「その方がキャリアは長かったからね。でも、保育士の方が楽かといえばそうでもないですよ。
私は4歳児クラスが多かったけど、けんかや物の取り合いが多くて仲裁するのはとてもストレスフルだった。おまけに子どものけんかに親が出るとますますややこしくなってその方がしんどかったですね。」
P家にとっては、間もなく3歳になる姪御さんのYちゃんが唯一の子どもで、彼女に大人たちのの視線が一挙に集中攻撃だった。
最近の少子化のなかで育った子どもたちは否応なく大人の溺愛や慰めの対象になるらしいし、
初対面の嫁同士の場合、話草にはYちゃんがもってこいだったので親睦の第1歩にはなったようだ。
途中、お義父さん詩吟やお義弟さんの「千の風になって」が披露されたのだけど、
それにもかかわらず、一見和やかな親族会が私にとっては幻のように感じられた。
夕方、ゆきんこの親族は早々に立ち去りそれぞれの居宅に帰っていったが、
Pさんの家族と、ゆきんこ、母がロビーでしばらく立ち往生となった。
Pさんの弟さんが疲れてダウンしてしまったのだ。
「ゆきんこさん、どうする?今から実家に来る?」
「・・・いいよ。私はもう帰るね」
「じゃあ、家まで車で送ろうか?」
「今から母と買い物に行くの。それからバスで帰るから。ありがとう。」
誰のせいでもないけど、P家の団欒に加わるにはその瞬間に躊躇いがあった。
母と私だけの寂しい母子家庭で育ったのだから、
やっぱり自然、私はPさんとPさんの一族と過ごすよりも母を独りにしたくなくて、帰ることにした。
子ども時代の原風景が蘇った。
両親の離婚後も父の姓を名乗り続けてきた私に、両親族に対する帰属感を持てずにいた。
私が親族の一員として認められていたと自覚したのは、Pさんと結婚したからだ。
親族間のみにくいあひるの子
子ども時代の原風景は、結婚してもしなくても痛くも痒くもない状態を維持しておきたいという
心の防衛線を張っていた。
そして、明らかにPさんの生家と私の生家や家族感覚のズレを感じていた。
そのズレというのは、私の場合、Pさん自身と結婚したと思っていたのだか、
Pさんの家族の一員になったという自覚がまるでなかったことにようやく気づいたからだった。
Pさんも私もパラサイトシングルと何も変わらない暮らし振りだ。
誰もがPさんと私の奇妙な結婚にノーコメントだった。
きっとPさん一家は、名ばかりの新妻などいなくても元の家庭の温かさや明るさを取り戻していけるだろう。
それぞれ夢は違っても・・・
午後6時。
淀屋橋駅から徒歩で御堂筋を梅田へと移動した。
アテネオリンピックが開催された4年前
S保育所で4月から海の日まで過ごした日々は、大阪市庁舎の前を通過したこの通学路とも重なっている。
当時、担当していた障害児のS君への個別支援をよりよいものにしたいと発起して、臨床心理士を目指し、大学院予備校へ10ヶ月間通学した。
おかげで、その年の11月無事、H大学大学院の幼年教育コースに合格を果たした。
無事にといっても、昼間は保育、夜週3回の予備校、土日は心理学のレポートという10ヶ月間はやっぱり楽ではなかった。
思い返せば、大学院在学中よりも予備校受験生おばさん時代の方が余程、苦学した気がする。
まずもって、30代半ばのハイミスが現役の20代の若者に交じって英語も心理学も基礎からやり直し。「もう、自分は結婚しないだろう。だったら、なけなしの自己投資でもう一度大好きな心理学を学びなおしたい。」
当時から今まで変わらぬリストラに次ぐ、リストラ。
福祉教育切捨て市政の下、転職の度に泣いてばかりいた使い捨てアルバイトおばさん生活にほとほと嫌気がさした。
自分なりに捌け口を求めての自己救済の突破口と、ABA(応用行動分析学)に対する未知への好奇心が、自分を支えていた。
淀屋橋から梅田まで運動がてらに徒歩で気分転換しながら交通費を節約した。
脇目も振らずに梅田の繁華街の雑踏を駆け抜けた。
・・・という苦労話はここまでにして
お初天神の社で一礼した。
「ん?ゆきんこと同い年の男性は、来年、本厄やんか」
旭屋書店に寄り道。
「図解 なりたい自分になれるNLPコミュニケーション練習帳」
(著者 木村佳世子 2008年5月28日初版 秀和システム ¥1000) を衝動買いしてしまった。
そこから、曽根崎警察署の裏側を通過して着いたところは、梅田花月があるビル内の居酒屋。
「久しぶり〜」
午後7時
にこやかに、大学院の幼年コースの仲間が集まった。
日ごろの鬱憤が溜まっているのか、話したいことが山ほどあるのか、
修了生も在学生も、それぞれの分野の話であっという間の2時間だった。
勝ち組の幼年教育現職正職員の先生は、相変わらず悠々自適振り。
それでも、大学院経営事情に詳しいK先生からは、学長をめぐる学閥抗争や、
通学に不便過ぎる田舎の大学が国費を打ち切られ、近々、取り潰しの対象になっていることをきいた。
恩師の諸先生方は、相変わらずの忙殺スケジュールに勤しんでいらっしゃる様子で、他大学へ退官する先生の話も出た。
修士号を取ったからといって、
猫も杓子も修士の時代。
幼児の絵画・造詣教育とアドバイザーを兼任する3年生のN氏は、先日論文の中間報告会で
後輩にあたる幼稚園のベテラン管理職から槍玉になったらしい。
なかなか、「主観的」であることが払拭できないと、一人よがりの発表ではたちまちに
「それは、あなたの偏見、思い込みでしょう?」という反論を受けてしまっては、
学会から正当に評価される論文とは言えない。
似たような研究報告だけでは、研究者も生き残っていけない時代だ。
「修士号だけではどうにもならないですよね。」
「そうなんだよね〜。」
「Mさん、今はどうしているんですか?」
「とりあえず、実績作りだよ。今、4社からリレー投稿の依頼を受けているんだ。大桃美代子とか芸能人の連載記事なんだけど。」
「すごい!有名人じゃないですか!」
「でも、単発の投稿じゃ仕方ない。無名のままで消えてしまう。今は、2つの大学で非常勤講師とアルバイトで食いつないでいるけど、子どもたちに家族サービスもできなくて我慢させているよ。」
「じゃあ、将来的には、博士課程ですか?」
「もちろん、50歳になるまでに、東京大学をね。」
「ええ!東大の大学院!?」
「だって、僕の研究分野は東大以外にないんだもの。」
「そうですか。私のイヌの研究だって、実は海外と東大しかなかったんですよ。
先行研究には苦労したけど、お陰で、発表のときにはブーイングもなくて済んだのかも。」
誰も関心払ってないオリジナルな研究って突っ込みようがありません。
学校や幼稚園・施設でイヌを飼おうなんている発想は、管理職にはありませんからね。」
ここでも、結婚してから新しく作った名刺を差し出してみたが、メンバーは殆ど無反応に近かった。
というよりも、自分のはまっていることをいかにアピールするかが、大学院というところだから、
海外の保育事情、太鼓での表現活動、親子スポーツ健康学などなど、一口に幼児教育といっても、
所詮、研究分野も話題もちぐはぐだ。
共通点は研究することと自身の懐のバランスとに苦闘していることだった。
それでも、集まった7人の同士全員に名刺を配ると正面に座ったNさんが質問してくれた。
「最近、私がかかわったお子さんで、どうも場面かんもくらしいという情報を得たよ。
幼稚園から小学校へ入学したんだけど、症状が改善せずに御母さんが心配しているらしい。
今は、どんな活動をしているの?」
「専門家はいないですから、当事者と保護者中心の自助活動です。
主には、HPの掲示板上での情報交換です。最近では、遠隔地でのオフ会も開いています。」
「へえ〜、すごいね。もう一枚名刺もらってもいいかな?お母さんに紹介するよ。」
「一枚といわず、何枚でも!」
「いや、一枚で十分・・・」
久しぶりにアルコールカクテルを飲んだら、もう2次会へ行く気力はなかった。
仕事で遅れて参加したNさんは、明日も早朝から仕事だというのに、やっぱりタフだ。
独身組5名が連れ立ってお茶しにいくとお初天神通りの入り口で別れた。
朝から晩まで異動の多い、それぞれの半生を仕事に滅私奉公してきた女性たちは逞しい。
だけど、気がつけば働き盛りを子育て支援に尽くした少子化の張本人だったりするところがなんだか皮肉だ。
これから博士を目指すというTさんとJR大阪駅へ向かった。
「研究の道に入った以上、有名にならなくちゃ、生業にならないですよね。
私も根がミーハーだから、有名になるって大変だし、自分の人生を賭けてやり遂げられるって誰にもできないすごいことだと思います。
でも、そのために誰かを犠牲にしてまで有名になったのなら、私は単純に有名であることでその人が
尊敬に値する人なのかどうか、論文を書くことで、手前味噌な結論で説得力に欠ける論文は評されないことがわかって、反対にシビアに考えるようになりました。
自分だけのの栄誉欲のために家族や身近な人に犠牲を強いて掴んだ栄光なら、最後にはその恩恵を返すべきではないですか?
そうまでして、掴む栄誉なら無名でも地に足つけてがんばっている人の方が余程、尊敬できる人のように思います。
結局、修士までとってもどうにもならない高学歴プアカップルだからなんですけどね。」
なんだか私、お説教くさいオバタリアンになったみたい!?
淀屋橋駅から徒歩で御堂筋を梅田へと移動した。
アテネオリンピックが開催された4年前
S保育所で4月から海の日まで過ごした日々は、大阪市庁舎の前を通過したこの通学路とも重なっている。
当時、担当していた障害児のS君への個別支援をよりよいものにしたいと発起して、臨床心理士を目指し、大学院予備校へ10ヶ月間通学した。
おかげで、その年の11月無事、H大学大学院の幼年教育コースに合格を果たした。
無事にといっても、昼間は保育、夜週3回の予備校、土日は心理学のレポートという10ヶ月間はやっぱり楽ではなかった。
思い返せば、大学院在学中よりも予備校受験生おばさん時代の方が余程、苦学した気がする。
まずもって、30代半ばのハイミスが現役の20代の若者に交じって英語も心理学も基礎からやり直し。「もう、自分は結婚しないだろう。だったら、なけなしの自己投資でもう一度大好きな心理学を学びなおしたい。」
当時から今まで変わらぬリストラに次ぐ、リストラ。
福祉教育切捨て市政の下、転職の度に泣いてばかりいた使い捨てアルバイトおばさん生活にほとほと嫌気がさした。
自分なりに捌け口を求めての自己救済の突破口と、ABA(応用行動分析学)に対する未知への好奇心が、自分を支えていた。
淀屋橋から梅田まで運動がてらに徒歩で気分転換しながら交通費を節約した。
脇目も振らずに梅田の繁華街の雑踏を駆け抜けた。
・・・という苦労話はここまでにして
お初天神の社で一礼した。
「ん?ゆきんこと同い年の男性は、来年、本厄やんか」
旭屋書店に寄り道。
「図解 なりたい自分になれるNLPコミュニケーション練習帳」
(著者 木村佳世子 2008年5月28日初版 秀和システム ¥1000) を衝動買いしてしまった。
そこから、曽根崎警察署の裏側を通過して着いたところは、梅田花月があるビル内の居酒屋。
「久しぶり〜」
午後7時
にこやかに、大学院の幼年コースの仲間が集まった。
日ごろの鬱憤が溜まっているのか、話したいことが山ほどあるのか、
修了生も在学生も、それぞれの分野の話であっという間の2時間だった。
勝ち組の幼年教育現職正職員の先生は、相変わらず悠々自適振り。
それでも、大学院経営事情に詳しいK先生からは、学長をめぐる学閥抗争や、
通学に不便過ぎる田舎の大学が国費を打ち切られ、近々、取り潰しの対象になっていることをきいた。
恩師の諸先生方は、相変わらずの忙殺スケジュールに勤しんでいらっしゃる様子で、他大学へ退官する先生の話も出た。
修士号を取ったからといって、
猫も杓子も修士の時代。
幼児の絵画・造詣教育とアドバイザーを兼任する3年生のN氏は、先日論文の中間報告会で
後輩にあたる幼稚園のベテラン管理職から槍玉になったらしい。
なかなか、「主観的」であることが払拭できないと、一人よがりの発表ではたちまちに
「それは、あなたの偏見、思い込みでしょう?」という反論を受けてしまっては、
学会から正当に評価される論文とは言えない。
似たような研究報告だけでは、研究者も生き残っていけない時代だ。
「修士号だけではどうにもならないですよね。」
「そうなんだよね〜。」
「Mさん、今はどうしているんですか?」
「とりあえず、実績作りだよ。今、4社からリレー投稿の依頼を受けているんだ。大桃美代子とか芸能人の連載記事なんだけど。」
「すごい!有名人じゃないですか!」
「でも、単発の投稿じゃ仕方ない。無名のままで消えてしまう。今は、2つの大学で非常勤講師とアルバイトで食いつないでいるけど、子どもたちに家族サービスもできなくて我慢させているよ。」
「じゃあ、将来的には、博士課程ですか?」
「もちろん、50歳になるまでに、東京大学をね。」
「ええ!東大の大学院!?」
「だって、僕の研究分野は東大以外にないんだもの。」
「そうですか。私のイヌの研究だって、実は海外と東大しかなかったんですよ。
先行研究には苦労したけど、お陰で、発表のときにはブーイングもなくて済んだのかも。」
誰も関心払ってないオリジナルな研究って突っ込みようがありません。
学校や幼稚園・施設でイヌを飼おうなんている発想は、管理職にはありませんからね。」
ここでも、結婚してから新しく作った名刺を差し出してみたが、メンバーは殆ど無反応に近かった。
というよりも、自分のはまっていることをいかにアピールするかが、大学院というところだから、
海外の保育事情、太鼓での表現活動、親子スポーツ健康学などなど、一口に幼児教育といっても、
所詮、研究分野も話題もちぐはぐだ。
共通点は研究することと自身の懐のバランスとに苦闘していることだった。
それでも、集まった7人の同士全員に名刺を配ると正面に座ったNさんが質問してくれた。
「最近、私がかかわったお子さんで、どうも場面かんもくらしいという情報を得たよ。
幼稚園から小学校へ入学したんだけど、症状が改善せずに御母さんが心配しているらしい。
今は、どんな活動をしているの?」
「専門家はいないですから、当事者と保護者中心の自助活動です。
主には、HPの掲示板上での情報交換です。最近では、遠隔地でのオフ会も開いています。」
「へえ〜、すごいね。もう一枚名刺もらってもいいかな?お母さんに紹介するよ。」
「一枚といわず、何枚でも!」
「いや、一枚で十分・・・」
久しぶりにアルコールカクテルを飲んだら、もう2次会へ行く気力はなかった。
仕事で遅れて参加したNさんは、明日も早朝から仕事だというのに、やっぱりタフだ。
独身組5名が連れ立ってお茶しにいくとお初天神通りの入り口で別れた。
朝から晩まで異動の多い、それぞれの半生を仕事に滅私奉公してきた女性たちは逞しい。
だけど、気がつけば働き盛りを子育て支援に尽くした少子化の張本人だったりするところがなんだか皮肉だ。
これから博士を目指すというTさんとJR大阪駅へ向かった。
「研究の道に入った以上、有名にならなくちゃ、生業にならないですよね。
私も根がミーハーだから、有名になるって大変だし、自分の人生を賭けてやり遂げられるって誰にもできないすごいことだと思います。
でも、そのために誰かを犠牲にしてまで有名になったのなら、私は単純に有名であることでその人が
尊敬に値する人なのかどうか、論文を書くことで、手前味噌な結論で説得力に欠ける論文は評されないことがわかって、反対にシビアに考えるようになりました。
自分だけのの栄誉欲のために家族や身近な人に犠牲を強いて掴んだ栄光なら、最後にはその恩恵を返すべきではないですか?
そうまでして、掴む栄誉なら無名でも地に足つけてがんばっている人の方が余程、尊敬できる人のように思います。
結局、修士までとってもどうにもならない高学歴プアカップルだからなんですけどね。」
なんだか私、お説教くさいオバタリアンになったみたい!?
さつまいもの苗植え&バーベキュー
最後の五月雨のあとは、すっかり夏の陽気
休日の遅い午前、通勤の田んぼ道を自転車で通過した。
農家の方々には土日など関係ない。
6月1日の本日から早苗の田植えが始まった。
さて、ワーク☆に就職して3ヶ月目。
はじめはどうなることやら?と心配だらけだった最重度の生活支援☆班では、
ベテラン支援員のOさんとゆきんこペアで6人の利用者さんとのチームワークが
なんとか形らしくなってきた。
自転車で急勾配の門から駐車スペースまで滑り降りると、既に来ていた利用者のIさんが
「ゆきんこさん、来たな。おはよう」
と手を振った。
次に、Tさんが玄関先で抱きついてきた。
「なあ、ゆきんこさん、Tとケッコンします。」
「Tさん、ありがとう。でも、Fさんとケッコンするんでしょ?」
「はい。でも、ゆきんこさん、かわいいからケッコンします。」
「いや、、、日本では二人もいっぺんにケッコンできないんです。」
「ゆきんこさん、好きです。」
それから、更にギュウギュウと抱きしめられて、ホッペにキスまで頂戴してしまった。
知的障害者にとって、ケッコンとはどういう意味なんだろうか?
20歳のTさんは、父と母がケッコンしたことは認識しているようだが、
私が既婚者だと知っていて、他にも男女無差別にケッコンしたい相手の名前を連呼してくる。
どうも、自分がファンになった相手と一つ屋根の下に暮らすことが、彼女の意図するケッコンの定義らしい。
午前10時30分過ぎ
施設の畑の畝上げ作業からぼちぼちとスタートした。
ワーク☆の利用者21名の平均年齢は20代半ばといったところか。
本日職場に来た目的は、保護者会の主催する「さつまいもの苗植え&バーベキューパーティー」にゲスト参加すること。
A保護者会の特長は、なんと言ってもお父さんパワーが頼もしく、保護者会員同士が仲良し大家族といった雰囲気だ。
自然、利用者同士も同じ釜の飯を食って育ってきた。
実のきょうだい以上に仲がいい上に、お互いに交わす言動がいたわりあいや思いやりにあふれている。
特に誰が誰に指示したり、命令されたりすることもなく、
障害のあるなしに関係なく、各々が鋤やスコップを持って、逞しく畑を耕し始めた。
遅れて、ゆきんこの担当するYさん母娘ペアがやってきた。
御母さんが盲目のYさんを小脇で支えて、階段を下りて畝の中へと入ってきた。
「Yさん、おはよう。すごいね、初めて畑へ入ったね!!」
「あら、そうでしたか?」
「すみません、階段は危険ですから、大事をとっていつもは裏口から車椅子で移動していました。」
御母さんの子育ての歴史の垣間見る瞬間が幾度もあったが、
ようやく30日ほどかかわったYさんの底力をまだまだ引き出せていないことに躊躇いがあった。
なんといっても、Yさんは視覚障害と重度の知的障害、そして肢体不自由というVIPでいらっしゃるので、施設長もいつもYさんの体調や機嫌の良し悪しに最も気を配っていた。
Yさんは、御母さんの導きでスコップを握り一緒に畑を耕した。
日ごとに伸びてきたトマトの葉に触れてニッコリと笑った。
ゆきんこは只今、『なぜ人は笑うのか?』というブルーバックスの科学文庫本を読書中。
生まれつき目が見えないってことは、笑顔も知らないはずなのに、
どんな重い障害があろうとも、人として生まれた以上は、楽しかったり、嬉しかったりすれば、
笑うことができるのか?
いや、「笑えない」ために社会の一員になることが難しい人々も少なくないことは、知られていない。
平日の畑作業は、小1時間続けるだけでもせいいっぱいなのに、
正午前には、こんもりとした畝ができ、苗も植わった。
「みんなヤサイ出して」
保護者会会長のI氏の掛け声に全員が袋から持参の野菜を取り出し、テーブルに並べた。
駐車スペースにバーベキューの煙が立ち昇り、お父さんたちが肉を炙った。
ブルーシートにテーブルを並べると、自然、利用者さんたちが座って、肉が焼けるのを待った。
「お〜い、一体、誰が焼くんだ!?」
「もうすっかりお客さん状態です。。。」
I氏とゆきんこがアイコンタクトと苦笑い。
そろそろ肉が焼けて、利用者の皆さんが率先して焼肉を頬張りだしたころ、
それまでご機嫌だったYさんがパタリと倒れた。
「発作です。」
Yさんを囲んで、御母さん、施設長、ゆきんこの3名が様子を見守った。
四肢を硬直させたまま、5分間ほどYさんの意識を失ったのか、反応しなかった。
結局、大発作には至らず、そのまましばらく安静にしているうち、
Yさんは、意識を回復した後は機嫌良く体を横たえ、まどろんでいた。
お母さんと私は、殆ど何事もなかったようにYさんの会話を弾ませた。
「最近、ようやく私の声にも慣れてくださり、歌を歌うとよく笑ってくださっています。
思ったより早く、信頼してもらえてよかったと思っています。」
「Yの担当は、中学も高校もいつもゆきんこさんと同じようなタイプの方でした。」
「ありがとうございます。」
「それに、私の友人によく似ているんです。」
「それは、ご縁があったのでしょうか?嬉しいですね。」
「ところで、ゆきんこさんはいつ結婚なさったのですか?」
「3月3日です。」
「まあ、ひな祭りの日ですね。」
「はい、結婚を決めてから入籍まで2週間もなかったですね。Yさんの息子さんも?」
「うちは、3月23日でした。」
「お近くにお住まいですか?」
「いえ、就職先の遠方なのです。」
「それでは、ご心配でしょう。」
「ええ、いずれ帰ってきてくれればいいと思っています。」
「お相手のご実家が遠いのですね。」
「ええ・・・それに、ご両親の承諾を得るのに時間がかかりました。」
「跡継ぎでいらっしゃいますものね。」
「それに、この子のことも気がかりだったようです。」
「ご家族になられる責任もありますね。でも、身内だけが重荷を背負うことはありません。
これからは、もっとクールに、ビジネスライクに他者の力を借りた方がお互いに気楽に頼めるのではないでしょうか?」
障害児・者の保護者の方々は、強かで明るく逞しい。
親子共々に真の支援者は誰なのか、その品定めの目利きも鋭い。
午後2時を過ぎたころ、お腹も程よく満腹になり、日差しは更にきつくなってきた。
一斉に後片付けを始めると、30分も経たないうちにバーベキュー会場はすっかり元の駐車場に戻っていた。
この和気藹々とした保護者会のムードは、
自分の家族に得られなかった憧憬と未来構想そのもののように思えた。
休日の遅い午前、通勤の田んぼ道を自転車で通過した。
農家の方々には土日など関係ない。
6月1日の本日から早苗の田植えが始まった。
さて、ワーク☆に就職して3ヶ月目。
はじめはどうなることやら?と心配だらけだった最重度の生活支援☆班では、
ベテラン支援員のOさんとゆきんこペアで6人の利用者さんとのチームワークが
なんとか形らしくなってきた。
自転車で急勾配の門から駐車スペースまで滑り降りると、既に来ていた利用者のIさんが
「ゆきんこさん、来たな。おはよう」
と手を振った。
次に、Tさんが玄関先で抱きついてきた。
「なあ、ゆきんこさん、Tとケッコンします。」
「Tさん、ありがとう。でも、Fさんとケッコンするんでしょ?」
「はい。でも、ゆきんこさん、かわいいからケッコンします。」
「いや、、、日本では二人もいっぺんにケッコンできないんです。」
「ゆきんこさん、好きです。」
それから、更にギュウギュウと抱きしめられて、ホッペにキスまで頂戴してしまった。
知的障害者にとって、ケッコンとはどういう意味なんだろうか?
20歳のTさんは、父と母がケッコンしたことは認識しているようだが、
私が既婚者だと知っていて、他にも男女無差別にケッコンしたい相手の名前を連呼してくる。
どうも、自分がファンになった相手と一つ屋根の下に暮らすことが、彼女の意図するケッコンの定義らしい。
午前10時30分過ぎ
施設の畑の畝上げ作業からぼちぼちとスタートした。
ワーク☆の利用者21名の平均年齢は20代半ばといったところか。
本日職場に来た目的は、保護者会の主催する「さつまいもの苗植え&バーベキューパーティー」にゲスト参加すること。
A保護者会の特長は、なんと言ってもお父さんパワーが頼もしく、保護者会員同士が仲良し大家族といった雰囲気だ。
自然、利用者同士も同じ釜の飯を食って育ってきた。
実のきょうだい以上に仲がいい上に、お互いに交わす言動がいたわりあいや思いやりにあふれている。
特に誰が誰に指示したり、命令されたりすることもなく、
障害のあるなしに関係なく、各々が鋤やスコップを持って、逞しく畑を耕し始めた。
遅れて、ゆきんこの担当するYさん母娘ペアがやってきた。
御母さんが盲目のYさんを小脇で支えて、階段を下りて畝の中へと入ってきた。
「Yさん、おはよう。すごいね、初めて畑へ入ったね!!」
「あら、そうでしたか?」
「すみません、階段は危険ですから、大事をとっていつもは裏口から車椅子で移動していました。」
御母さんの子育ての歴史の垣間見る瞬間が幾度もあったが、
ようやく30日ほどかかわったYさんの底力をまだまだ引き出せていないことに躊躇いがあった。
なんといっても、Yさんは視覚障害と重度の知的障害、そして肢体不自由というVIPでいらっしゃるので、施設長もいつもYさんの体調や機嫌の良し悪しに最も気を配っていた。
Yさんは、御母さんの導きでスコップを握り一緒に畑を耕した。
日ごとに伸びてきたトマトの葉に触れてニッコリと笑った。
ゆきんこは只今、『なぜ人は笑うのか?』というブルーバックスの科学文庫本を読書中。
生まれつき目が見えないってことは、笑顔も知らないはずなのに、
どんな重い障害があろうとも、人として生まれた以上は、楽しかったり、嬉しかったりすれば、
笑うことができるのか?
いや、「笑えない」ために社会の一員になることが難しい人々も少なくないことは、知られていない。
平日の畑作業は、小1時間続けるだけでもせいいっぱいなのに、
正午前には、こんもりとした畝ができ、苗も植わった。
「みんなヤサイ出して」
保護者会会長のI氏の掛け声に全員が袋から持参の野菜を取り出し、テーブルに並べた。
駐車スペースにバーベキューの煙が立ち昇り、お父さんたちが肉を炙った。
ブルーシートにテーブルを並べると、自然、利用者さんたちが座って、肉が焼けるのを待った。
「お〜い、一体、誰が焼くんだ!?」
「もうすっかりお客さん状態です。。。」
I氏とゆきんこがアイコンタクトと苦笑い。
そろそろ肉が焼けて、利用者の皆さんが率先して焼肉を頬張りだしたころ、
それまでご機嫌だったYさんがパタリと倒れた。
「発作です。」
Yさんを囲んで、御母さん、施設長、ゆきんこの3名が様子を見守った。
四肢を硬直させたまま、5分間ほどYさんの意識を失ったのか、反応しなかった。
結局、大発作には至らず、そのまましばらく安静にしているうち、
Yさんは、意識を回復した後は機嫌良く体を横たえ、まどろんでいた。
お母さんと私は、殆ど何事もなかったようにYさんの会話を弾ませた。
「最近、ようやく私の声にも慣れてくださり、歌を歌うとよく笑ってくださっています。
思ったより早く、信頼してもらえてよかったと思っています。」
「Yの担当は、中学も高校もいつもゆきんこさんと同じようなタイプの方でした。」
「ありがとうございます。」
「それに、私の友人によく似ているんです。」
「それは、ご縁があったのでしょうか?嬉しいですね。」
「ところで、ゆきんこさんはいつ結婚なさったのですか?」
「3月3日です。」
「まあ、ひな祭りの日ですね。」
「はい、結婚を決めてから入籍まで2週間もなかったですね。Yさんの息子さんも?」
「うちは、3月23日でした。」
「お近くにお住まいですか?」
「いえ、就職先の遠方なのです。」
「それでは、ご心配でしょう。」
「ええ、いずれ帰ってきてくれればいいと思っています。」
「お相手のご実家が遠いのですね。」
「ええ・・・それに、ご両親の承諾を得るのに時間がかかりました。」
「跡継ぎでいらっしゃいますものね。」
「それに、この子のことも気がかりだったようです。」
「ご家族になられる責任もありますね。でも、身内だけが重荷を背負うことはありません。
これからは、もっとクールに、ビジネスライクに他者の力を借りた方がお互いに気楽に頼めるのではないでしょうか?」
障害児・者の保護者の方々は、強かで明るく逞しい。
親子共々に真の支援者は誰なのか、その品定めの目利きも鋭い。
午後2時を過ぎたころ、お腹も程よく満腹になり、日差しは更にきつくなってきた。
一斉に後片付けを始めると、30分も経たないうちにバーベキュー会場はすっかり元の駐車場に戻っていた。
この和気藹々とした保護者会のムードは、
自分の家族に得られなかった憧憬と未来構想そのもののように思えた。
五月雨が降る日は その2
結婚して2ヶ月あまり。
大河ドラマの篤姫さまも、将軍さまの妻になって大儀なことである。
私の場合、未だに結婚した実感が殆どない。
大学院修了後、4月から本格的に障害者授産施設の介護生活支援員として働き出したので、
週5日8時間労働に費やしている時間の方が、1週間の主要な時間を占有していること、
実家では、パラサイトシングル時代と何ら変わらぬ、家事免除状態が維持されていること、
そして、何より未だに親族への挨拶さえもまともにやっていないこと
などなどがその理由。
世間一般からすると、結婚していないのに同棲していた2007年と
結婚したのに一緒に住んでいない2008年の狭間で、
とりあえず、無神経に恙無くやり過ごしている五月雨の3連休になった。
婚家と実家は隣町でまあまあ近距離なので、慌てず当分、週末別居婚が進行中。
しかし、婚家のお父さんもPさんに新居探しを促しているらしい。
伯母たちも、Pさんと私の「ど貧乏紙切れ婚」にブーイングを唱えた。
それで、今日、先月末の竣工式の振り替え休日をもらって3連休にした代わりに
伯母たちを実家に招待してPさんと挨拶を交わすことになった。
伯母たちがやってくる前日に従姉妹から新たに大きな花束が宅急便で届き、
母と私は、まずは手狭な部屋を掃除することから始めた。
伯母たちの心配も無理はない。
実質、ゆきんこの母方の一族というのは、強烈な母系社会で男性親族が少ない。
自然、男性親族は大人しく隅に追いやられているというのが、母方親族の集いの風景だった。
おまけに、私が生まれる以前の母と父との交際、結婚から結婚生活、離婚、その後の母子家庭まで
彼是40年以上も見守ってきた伯母たちにとっては、私の結婚が単純な紙切れで済まなかったことを
実感したのだった。
午後10時30分にPさんがスーツ姿でやってきたと同時に小雨が降り出した。
5分したかしなかったかで御母さんから携帯の電話が入り、お菓子を持って馳せ参じるといってきた。
それから15分くらいして、御母さんがかけつけてお菓子を届けにきた。
Pさんが付近の駐車場に車を停めに行き、そうこうしている間に、伯母たちが到着した。
雨が少し強くなり、母を間に挟んだ老いた3姉妹とPさんの御母さんが狭い居間に勢揃いして
恭しく正座して、深々と礼を交わした。
今時の若い衆には、面倒くさい儀礼だけど、心あるからこそ親族が遥遥駆けつけてくれたのだなあと
改めて感謝の気持ちがわいた。
「結婚してもしなくても、もちろん私は仕事を続けますが、、、」
「当然です!」
伯母たちは口にこそ明言しなかったが、
Pさんと私がこれから無事に生計を立てていけるのかに関心が集中していた。
30代を不安定雇用者として過ごしたことと、仕事が激務であるのに低収入であること、
夫は目下、報酬のない仕事に従事していることは、相変わらずの世間一般の不安材料であった。
新しい施設では、利用者の方々を送迎する年配の運転士さんと仲良くなった。
「あんたも苦労だね〜」
と私の仕事振りとか、近況を話しながら労ってくれる。
「男は、妻が働きすぎだと怠けるんだよ。」
「・・・・そうですかね・・・」
「わしなんかは、母親を10歳でなくしたけど、妻の両親と同居して、最期まで面倒見たんだ。
あんたの新婚生活をみとったら、あんたがバカをみてるだけじゃないか。
しかも、仕事だって担当している人たちは、みんな大きな赤ちゃんみたいなもんじゃないか。」
そういって、代弁してくれる人がいるから、なんとかもちこたえているのかもしれない。
それに、母よりも年上の運転士さんが達観したことをいつも車の中で言ってくれる。
「金持ちじゃなんじゃといったってな、天変地異でも起こって死んでしまったらどうにもならんのじゃ。
まあ、少々給料が安くても相手に喜ばれる仕事をしとるんじゃから、いいじゃないか。
今は、障害児さまさまのご時世じゃから、昔とはくらべものにならんよ。」
「確かに福祉の充実は経済の発展に裏打ちされています。おかげで、私もご飯を食べられるわけで・・・」
通勤に路線バスと自転車を併用して田んぼの中を通勤しているところ、
梅雨明けには、自宅から電動自転車通勤を検討中。
「おんボロの中古車でいいから買って通勤すればいいじゃないか」
とPさんに進言され、本音をいえないので、ここに愚痴っておこう。
誰かに便乗はしても、自らは地球温暖化に拍車をかけたくないというエコ・レジスタンスは、私をがんこなペーパードライバーにし、雨の日も、寒暖の激しい日も自転車を愛用してきた。
考えすぎかもしれないが、往復1時間かけて町外れの山奥に居住する利用者さんを送迎するために、
どれだけのガソリンを消耗しているのだろうか?
そのことが、巡り巡って北極の白くまさんを餓死させていることにいたたまれない私は、
やはりバカなんだろうか?
そして、事例研究できない日々刻々のPさんの変容ぶりを密かに恭悦至極としている私は、やっぱりバカなんだろう。
憂いの中に、笑顔を携えているのがゆきんこ流。
さて、明日も5時起床でいきましょう!
大河ドラマの篤姫さまも、将軍さまの妻になって大儀なことである。
私の場合、未だに結婚した実感が殆どない。
大学院修了後、4月から本格的に障害者授産施設の介護生活支援員として働き出したので、
週5日8時間労働に費やしている時間の方が、1週間の主要な時間を占有していること、
実家では、パラサイトシングル時代と何ら変わらぬ、家事免除状態が維持されていること、
そして、何より未だに親族への挨拶さえもまともにやっていないこと
などなどがその理由。
世間一般からすると、結婚していないのに同棲していた2007年と
結婚したのに一緒に住んでいない2008年の狭間で、
とりあえず、無神経に恙無くやり過ごしている五月雨の3連休になった。
婚家と実家は隣町でまあまあ近距離なので、慌てず当分、週末別居婚が進行中。
しかし、婚家のお父さんもPさんに新居探しを促しているらしい。
伯母たちも、Pさんと私の「ど貧乏紙切れ婚」にブーイングを唱えた。
それで、今日、先月末の竣工式の振り替え休日をもらって3連休にした代わりに
伯母たちを実家に招待してPさんと挨拶を交わすことになった。
伯母たちがやってくる前日に従姉妹から新たに大きな花束が宅急便で届き、
母と私は、まずは手狭な部屋を掃除することから始めた。
伯母たちの心配も無理はない。
実質、ゆきんこの母方の一族というのは、強烈な母系社会で男性親族が少ない。
自然、男性親族は大人しく隅に追いやられているというのが、母方親族の集いの風景だった。
おまけに、私が生まれる以前の母と父との交際、結婚から結婚生活、離婚、その後の母子家庭まで
彼是40年以上も見守ってきた伯母たちにとっては、私の結婚が単純な紙切れで済まなかったことを
実感したのだった。
午後10時30分にPさんがスーツ姿でやってきたと同時に小雨が降り出した。
5分したかしなかったかで御母さんから携帯の電話が入り、お菓子を持って馳せ参じるといってきた。
それから15分くらいして、御母さんがかけつけてお菓子を届けにきた。
Pさんが付近の駐車場に車を停めに行き、そうこうしている間に、伯母たちが到着した。
雨が少し強くなり、母を間に挟んだ老いた3姉妹とPさんの御母さんが狭い居間に勢揃いして
恭しく正座して、深々と礼を交わした。
今時の若い衆には、面倒くさい儀礼だけど、心あるからこそ親族が遥遥駆けつけてくれたのだなあと
改めて感謝の気持ちがわいた。
「結婚してもしなくても、もちろん私は仕事を続けますが、、、」
「当然です!」
伯母たちは口にこそ明言しなかったが、
Pさんと私がこれから無事に生計を立てていけるのかに関心が集中していた。
30代を不安定雇用者として過ごしたことと、仕事が激務であるのに低収入であること、
夫は目下、報酬のない仕事に従事していることは、相変わらずの世間一般の不安材料であった。
新しい施設では、利用者の方々を送迎する年配の運転士さんと仲良くなった。
「あんたも苦労だね〜」
と私の仕事振りとか、近況を話しながら労ってくれる。
「男は、妻が働きすぎだと怠けるんだよ。」
「・・・・そうですかね・・・」
「わしなんかは、母親を10歳でなくしたけど、妻の両親と同居して、最期まで面倒見たんだ。
あんたの新婚生活をみとったら、あんたがバカをみてるだけじゃないか。
しかも、仕事だって担当している人たちは、みんな大きな赤ちゃんみたいなもんじゃないか。」
そういって、代弁してくれる人がいるから、なんとかもちこたえているのかもしれない。
それに、母よりも年上の運転士さんが達観したことをいつも車の中で言ってくれる。
「金持ちじゃなんじゃといったってな、天変地異でも起こって死んでしまったらどうにもならんのじゃ。
まあ、少々給料が安くても相手に喜ばれる仕事をしとるんじゃから、いいじゃないか。
今は、障害児さまさまのご時世じゃから、昔とはくらべものにならんよ。」
「確かに福祉の充実は経済の発展に裏打ちされています。おかげで、私もご飯を食べられるわけで・・・」
通勤に路線バスと自転車を併用して田んぼの中を通勤しているところ、
梅雨明けには、自宅から電動自転車通勤を検討中。
「おんボロの中古車でいいから買って通勤すればいいじゃないか」
とPさんに進言され、本音をいえないので、ここに愚痴っておこう。
誰かに便乗はしても、自らは地球温暖化に拍車をかけたくないというエコ・レジスタンスは、私をがんこなペーパードライバーにし、雨の日も、寒暖の激しい日も自転車を愛用してきた。
考えすぎかもしれないが、往復1時間かけて町外れの山奥に居住する利用者さんを送迎するために、
どれだけのガソリンを消耗しているのだろうか?
そのことが、巡り巡って北極の白くまさんを餓死させていることにいたたまれない私は、
やはりバカなんだろうか?
そして、事例研究できない日々刻々のPさんの変容ぶりを密かに恭悦至極としている私は、やっぱりバカなんだろう。
憂いの中に、笑顔を携えているのがゆきんこ流。
さて、明日も5時起床でいきましょう!



