日常の当たり前の何気ないことの中に 「あっ」というささやかな発見を一緒に 味わってくれませんか? でも、もしかすると、見過ごしている当たり前でない大発見かもしれません。
秋深し 只今、ペーパードライバー教習中。
2016年11月06日 (日) | 編集 |
アラフィフにして、慣れないことにチャレンジというのは厳しいものです。

前々回に予告していた通り、11月に入って隣町までペーパードライバー教習に通い始めました。
遠い昔、卒業前の最後の春休みに通ったY教習所で、一体、どんな練習したのか、
ほとんど忘れて、5年ぶりに運転席に座り、ハンドルを握りました。

「ゆきんこさん、免許証を拝見します。」
「今回の運転の目的をお聞かせください。」
「母親の介護が必要になりまして。認知症のため、独りで外出できなくなりました。通院や買い物などの外出に
同行したいと思います。」
初回は、所内でイケメンの先生が助手席でやさしく指示をしてくれるので、職場の上司の指示とは大違いでした。
「運転がうまいからと言って、運転を教えるのが上手という訳ではないですよね」
「よく知っている道を繰り返し回数を重ねて、自分のペースで毎日短時間でも練習したらいいですよ。」
などと、過去の数々の失敗を聞き出し、苦手意識を克服できるようサポートしてくれるのが
ありがたかったです。

しかし、ちょっとした疑問もあります。
指導の先生は日替わりで、イケメン先生にあたるとるんるんだったりしますが、
毎回、「はじめまして、よろしくお願いします。」のご挨拶。
そして、各々の先生によって助言は随分違うものだなと感じました。

昨日5日と一昨日、2日続けて車庫入れの重点課題に挑みました。
一昨日4日担当のS先生のアドバイスはアバウトながら、自分にしっくりきました。
「最初のうちは車庫から離れた場所からなるべく縦方向に車体を出しましょう。
一度でラインと平行に入らなかったら、また前に出して正面の車と向かい合わせに修正しながら下がるんです。」

一方、昨日のK先生は見るからにきっちりした几帳面そうなベテラン指導員です。
「まず、なるべく車体を停めたい場所のラインに近づけます。
停めたい場所と隣りの車の中央に来たら、斜め前に車体を出して、
サイドミラーから隣の車体の先端が見えたら、バックします。
ハンドルはどこを向いて、このままだとどうなりますか?
ミラーから見える車体の角度とハンドルの向きの感覚をつかみましょう。
窓から外の状況もよく見ながら、ミラーの角度だけに気をとられないように・・・」
などなど、きめ細かすぎて・・・

「すみません、先生、よくわかりません・・・」
「最初はね。だんだんわかるようになります。」
と言ってもらったけど、なんだか苦笑い。

そもそも、ミラーみながらなんてあんまり運転してないし。
なんとなくわかったのは、
バイクよりも、周囲に目配りするのは死角が多い車の方が重要なんだと
わかりました。

教習所の勧めで夕方から日暮れ、夜にかけての4時から6時に
視界の悪い状況で、5回終了しました。

順調にいけば、明日の午前中に6回目。
12日の土曜日に2時間連続の高速道路の教習で最終回です。
行先は、お世話になったS接骨院と決めました。
これまでは、専ら助手席が指定席でしたが、
果たして、親孝行ドライブは実現するでしょうか?
乞うご期待!

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2016/11/06 22:45 | 悶々 | Comment (0) Trackback (0) | Top▲
面目ない祝賀会
2016年03月27日 (日) | 編集 |
人生には予期せぬ墜落事故のようなことが起こってしまうものです。

3月の後半になって、ほとんど同時に二つの同窓会の誘いが舞い込んできました。
ひとつは、旧友から大学の吹奏楽の同期会です。
さんざん参加しようかどうか、迷いましたが、
こちらは、26年ぶりの再会です。
若かった20代前後の先輩後輩仲間が時を経て、すっかりおじさんおばさんです。
私もどうかしちゃったのか、再会の嬉しさよりも恥ずかしさの方が勝ってしまい、
結局、仕事を理由に不参加としました。

もう一つは、恩師F先生のご退職記念の祝賀会です。
これでも昔、ブログ開設当所は、一応保育士であり、社会人大学院生という肩書をもっていました。
いえ、自慢したい訳じゃありません。
吹奏楽はわずか4年の歳月でしたが、
3つの大学、大学院で心理学、特別支援教育を専攻し、曲がりなりにも40歳までは学業を積んできました。

その当時の恩師のF先生には、拙者のブログの経緯とともに、
約10年間にわたり、お世話になり続けております。
そのF先生のご退職記念講演会にお招き預かり、
K大学まで馳せ参じました。

最終講義は、話し切れない伝えきれないF先生の人生訓が凝縮され、
最後に記念撮影して、無事終了しました。

ここまでは良かった。
その次が実に困った困った。

遡ること、2年前の4月。
F先生の研究室を不意に訪れ、
再就職のお世話をいただいたお礼に伺いました。
あいにく、更年期症状のために、十分仕事に従事できず、
不本意にもわずか8か月の雇用期間で、何にもお役に立てないまま、
火の見櫓的役職であったセンターを去る羽目となりました。

懐深く、どのお弟子さんたちをも抱合するF先生のご配慮で、
即座に、私に相応しい次の就職先をご紹介いただいたにもかかわらず、
因果応報というのか、私はちょうど18年前にもやらかした
指導教官の顔に泥を塗った忌まわしい過ちのために、
F先生はじめ、特別支援教育界隈の人脈を
自ら断ち切ってしまったのでした。

なので、どの面下げてって感じで、
またもや直々のお電話でお誘いがあったので、
断ることもできず、出席したのです。
しかし、

なんでそういう私が、F先生の正面向かいの指定席なの?
言ってみれば、F先生の刺客であった私なので、
あまりにも立派すぎたその役職なんてできる訳がない。

その私座すことになった席は、当時の役職の席よりも
酷い席でした。
F先生に近しい方々といえば、教育臨床のエキスパートを育てる
著名な方々が取り囲んでいます。
中には、NHKクローズアップ現代に出演されたT先生も
隣席しておられます。
そういえば、12年前の面接試験の時、予めT先生は仰いました。
「全員合格させてあげたいけど、定員数がありますので、不合格だったらごめんなさいね。」
受験者全員に宣言してるのか、自分だけに言われたのか、
合格させることが決まっている管理職の方々は顔パスのコースですからね、
まあ私に言ったんでしょう。

そんなT先生に再会するのもアンビリーバボー。
10年経ち、もうすっかりただのおばちゃんになった私に、
入る穴はどこにもありませんでした。
当然、畏れ多すぎて、御酌をすることもできませんでした。

冷や汗かいて、平静を装い、只々ご馳走をいただくのがせいいっぱいでした。
もちろん、私には数少ない同期の桜の方々にも再会することができたので、
寧ろ、F先生の真正面席よりは、その方々と同じ末席でいいのになあと
思いました。

しかし、その方々と再会するのも10年近くの歳月が流れています。
自分からなんとか話せたのは、F先生の孫弟子にあたる
2年前のセンターで同僚であったK先生だけでした。

なんというか、かけがえのないF先生とのご縁に導かれ、
「私ってなんでこんな人生なんだろうなぁ・・・」
と、否応なくふりかえらざるをえない会食のひとときでした。

おばはんみたいとけなされていたコートのボタンが、
最寄りのK駅のプラットホームに着いた瞬間、
弾け飛んで、電車とホームの隙間に落ちていきました。
駅員さんに頼んで、落ちた付近を懐中電灯で照らしながら
探してもらいましたが、暗くて見つかりませんでした。
そういうしょうがないことってあるんです。

帰宅してフォーマルスーツを脱いで、ほっとしましたが、
失言やら悪態ついたことに自己嫌悪が募ります。
つまりは、懺悔の気持ちが増幅し、申し訳ない気持ちになります。

私は、恩師のF先生に背いてこれまでの履歴を捨て去っても、
今の自分、今のアルバイトの仕事、そして仲間に
ずっと安心し、満足しています。

本当は綴りたい内容でもなかったんですけどね、
過去を振り返ると、自分の悔恨をむしかえしてしまう
そういう中年期にある私です。
最近、目が悪くなり、特にまぶしいのが苦手です。
F先生の相変わらずの笑顔がまぶしすぎて、ご尊顔を拝するのは、何のお役にも立たず去った私にちょっと辛いのです。
そして、立派なられたお弟子さんたちもやっぱり眩しくて、じわりと涙が滲んでしまうのです。

二度とない1日だから、敢えて邪な心を晒し、自戒を込めて綴っておくことにしました。
でも、F先生、心配しないでください。
春からのご栄転とご活躍をお祈りいたします。


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2016/03/27 20:39 | 悶々 | Comment (0) Trackback (0) | Top▲
ゆきんこの心と秋の空
2015年09月22日 (火) | 編集 |
現職の契約パート社員になれたのはいいが、
辞めたくて仕方ない1週間を過ごした。
それで、しばらく考えて、やっぱり今月末で辞める決心をした。

指導係の女性に悪意はない。
しかし、単純に言って苦手なことをあえて克服しようと辛抱ができないだけなのだ。
であれば、自分の比較的得意な方面にもっと的を絞った職場を探しなおそうと思った。

そう思った一因には、更年期の辛さも加わっている。
前にもどこかで書いたが、とにかく、毎月下旬になると貧血症状やらのぼせなどで
ふらふらになってしまう。
せっかくの連休のイベントも今日はドタキャンしてしまった。

更年期のせいか、友人に会っても体調が悪く愚痴っぽくなる。
楽しい女子会に水をさしたくなく、体調が良くないとこれまたキャンセルしがちになる。

仕事では、我がまま放題に休む訳にはいかないから、どうしても無理をして出勤する。
やがて、迷惑をかけることになるだろうと予測して、厳格な社風の現職を退くことにした。

それより何より、不安定な体調ちゃんと管理できるようになるのが、先決だけど、
同年代の知人、友人はあまり更年期で困っていないようで皆元気そうだ。

母は私より健康だけど、認知症は少しずつ進行していると思う。
作り話や妄想が増えてきて、やっぱり普通の脳みそじゃなくなっていくんだなと命ある限りは
放ってはおけないという憂いがある。

レバニラ炒めやプルーンなど、造血しそうなメニューにしてるんだけど、
腰痛の次に悩ましい。
子ども時代から若い時代にかけてこれでも、障がいを持つ方々に及ばすながら傍らにいたあの
忍耐はどこへいったやら・・・

思秋期って思春期と同じくらい慢性的に辛いのは、
私だけでしょうか?




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2015/09/22 23:58 | 悶々 | Comment (0) Trackback (0) | Top▲
ありがとう、さようなら(こころの断捨離)
2015年05月04日 (月) | 編集 |
5月は新緑の季節。楽しいGWの到来です。
でも、私の心は、少しわだかまっています。
「死んでからじゃ、もう会えないのだ」という思いです。
今年は、戦後70年という節目の年だからでしょうか?

しかし、23年前に来訪した父の郷里、
つまり、父方の祖父母への思いは、その時以来、ようやく心の断捨離ができたように思います。

5月2日~3日の一泊2日で、老齢の父に付き添い、お墓参りの旅に出かけました。
既に要介護2の独居老人になった父が郷里に戻るのは、40年ぶりのこと。
40年前には、小学校2年生になったばかりの私も祖父の葬儀に参列しました。
それから、母の勧めで、祖母の病院に見舞いに行ったのが、24歳の時でした。

事の発端は、一昨年の師走、父の姉が亡くなり、従兄が訃報を知らせてくれたおかげです。
3年ほど前から、父が私に郷里に連れて帰ってほしいとせがんでいたのですが、なかなか条件が調いませんでした。

今回は、私にとっても3回目の父方の親族との再会でした。
高速道路を一直線で、父の生家には予定通りに着いたのですが、
門構えや家の様子が変わっていて、父も私も戸惑いました。
従姉のMさんが玄関先に現れ、「叔父さんですか?」と確認できました。
既に、4月の下旬には祖父と伯父の法要は済ませたとのこと。

「僕の家なんだから、泊めてもらえばいいじゃないか」
と空気読めない暢気な父。
世代交代した従姉に迷惑をかけたくなく、
たったの3回しか会っていない父の実家の親族とは隔たり大きく、
事前予約で少し離れた場所に宿をとりました。

若おかみさんが親切に、リクエストに応じて下さり、
足腰の弱った父に椅子や、毛布を運んだり、
また、食事のメニューや観光のコツなども教えてくださいました。
「こちらは、マンダイという魚で、当地では今が旬です」
「立山ポークというブランドの豚肉です」
と宣伝していただいたメインディッシュがとっても美味しく、
採れたてのふきのとうなどの山菜てんぷらに舌鼓を打ちました。
私は単純なところもあって、美味しい食事をいただくと幸せになります。
温泉も前評判通り、炭酸泉で肌がつるつるすべすべになりました。
出立の時にも、若女将さんが写真を撮ってくれて、
家業を手伝う小学生のお子さんたちも挨拶をしてくれました。
ツイッターにコメントしてもよさそうですが、
小心者ですから、ここに付記しておきます。

出発前夜から翌日にかけて、いよいよ従姉と叔母に再会すると思うと、
早めに就寝したものの、その夜は頭の中で会話シュミレーションが駆け巡り、 
緊張気味で少しは眠れただろうかという感じでした。

おかしなもので、血族ではあるものの、父方の一族は私には敷居の高い人々でした。
「遠くの親戚より近くの他人」をそのまま地で生きてきた私です。
そのため、跡取りである一人娘に生まれた従姉のMさんには、
独身時代から同じ姓で長い年月生きてきたはずなのに、
私には冷血な一族のイメージしかありませんでした。

3日の午前10時過ぎ。
Mさんは、準備万端整えて、私たちを接待してくれました。
しかし、父は生家の憂い、悩みの種であったことが会話から実証されたので、
「仔細はお話しするまでもなく、独身時代の素行の延長ですね」と
私から、父の報告をするのはダイジェストにせざるを得ませんでした。

お経をあげて、お祖父様と伯父様の掛け軸と、先祖代々の系図も見せてくださいました。
歴代のお墓の前で焼香もさせてもらいました。
父の妹のTさんが、父の諸々のエピソードを語って下さり、
「私、貴方の妹ですよ!」
「ゆきんこちゃんが、娘でよかったわ。あなたは、(伯母の)Mさんに似ているわね」
「この人、本当ならもっといい人生送れたはずなのよ。。。でも、親に逆らってばかりでしたもの」
とつぶやいてくれました。
奇遇なのか、血筋なのか、叔母のTさんは嫁いでから、保育所経営を続けてきたと語ってくれました。
「私も結婚は遅かったのですが、保育士として自閉症のお子さんたちの支援を15年ほどしてきました。」
「そうだったの?話が合いそうね。」

また従姉のMさんも、祖父母や父の古いアルバムと
敷地内を一巡し、ご先祖様の骨壺も見せてくださいました。
「叔父さんのこと、私なりに気にしていました」
「父が生前、憎らしいけどどうしても気になる弟と言っていました。」
「もうこれで最後でしょうから、どうぞ持って帰ってください。」
とありったけの御みやげ物を数々渡してくださいました。

祖父の葬儀以来、40年間『行方不明者』扱いだった父。
仕方ありません。自分からは一切連絡もせず、今回の墓参りだって、
自分の好き勝手に「故郷が恋しくなったから連れて帰ってくれ」という
要望に、応えなければお祖母さまにすまないからです。

生まれてこの方、好き勝手放題、迷惑かけ放題の80年。
それも、平和で医療福祉の充実した日本の高齢化社会の恩恵が大きいです。
断絶した全くかかわりのなかった親族ですが、
父と衣食を共にした者同士。
胸の内はどうやら同じだったとわかりました。
そうでなければ、この墓参りは実現しなかったと思います。
物理的には、足腰の悪い父を電車を乗り継いで連れてくることは到底不可能だったので、
昨年、マイカーを所有できたことが大きく功を奏しました。

はじめての一人旅で、祖母を訪ねて、それから3年後の平成7年
94歳の長寿を全うしたとMさんが告げてくださいました。
お祖母様はなぜか、孫娘の私を放蕩息子が帰ってきたと思い込んでおられたそうです。
口にはせずとも、帰ってこないどうしようもない息子が心配でたまらなかっただろうとも
話しました。

その時点で、もうお目にかかることも、この地を再訪することもないと
思ってきたので、私としても父を連れ帰ることができ、改めて感無量です。
今回もその思いを新たに、郷里の古いお寺を後にしました。

父は体調を崩すことなく、上機嫌でした。
子どもの頃から、父の顔色ばかり見てきた私。
そして、学問好きの祖母の心を想像するに、背後霊は祖母じゃないかと思いながら、大学院まで精進し生きてきました。
祖母と父、2世代分の親孝行ができてほっとしています。
連休明けには、何かいいことありそうな気がします。

もしも、幼い頃、若い頃に生き別れたままの懐かしい人がいたら、再会の機会がいつか訪れますようにと
祈りましょう。

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2015/05/04 18:05 | 悶々 | Comment (0) Trackback (0) | Top▲
師走なんだけど・・・
2014年12月10日 (水) | 編集 |
今年もカウントダウンの時節です。
しかし、私の心模様はだらだらモードです。
なんというのか、なんとかしなくちゃという焦りモードよりも、
ま、なんとかなるかなという安穏モードで、
就活に気合入りません。
あれから、一応、履歴書も手書きで書き換えて、
職務経歴書も、ハローワークの窓口担当Y氏の助言を参考に、
明瞭簡潔にA4枚にまとめてみました。

応募も2つほど、してみたのですが、
時給が安かったり、交通費の支給がなかったり、週5日勤務で条件合わなかったりで、
キャンセルしてしまいました。

これまでは、あまり選択の余地なく、採用されれば、多少の不満はあっても、
涙をのんで(大袈裟)、堪えてきました。
でも、もういいんじゃないか?
そろそろ、自分らしく無理なく働ける条件を厳選したって。
やっと政府も、世間一般も少子高齢化が深刻になって、
女性が働きやすいライフワークバランスを真剣に考えてくれるようになった。
馬車馬みたいに男性と肩を並べて働いてきた結果、
それでも、昇進、出世させてくれない日本スタイル。
古来からの男女の性役割を全否定するわけでもありません。
大方の一般女子は所詮、こまごまとした家事をするのに向いてますから。

一応、暢気なアルバイト主婦なので、
3食はちゃんと自炊してますが、たまの昼寝つきで、年末の掃除、布団干し、ゴミの分別、老母の世話、
年賀状作り、そして、たまの思いついたようなブログ。
師走だからというわけではなく、諸々の事を、めんどうくさくても、コツコツやってる師走です。

人間、何が賞賛されると言って
必ずしも、無難に悪いこともせず、長々と履歴を重ねたからいいってことでもないのです。

夕方、NHKの番組で「人生ドラマティック」というコーナーに同い年の坂上忍氏が出演していました。
夕食の支度を一時中断して、見入ってみれば、波乱万丈の俳優生活を物語っていました。
坂上氏の名前を初めに記憶したのは、1970年当時、『大草原の小さな家』が放送されていた時。
氏は、アルバートというローラの家にやってきた養子だったか、孤児だったか、そういう少年役の声優として
従事していました。
小学生の私は、ブラウン管の向こう側でお気楽な視聴者だったのです。

3歳で児童劇団に入団。天才子役として、大河ドラマにも出演し、大物俳優とも共演。
反面、坂上少年は、仕事で遅刻や欠席が多く、成績をつけてもらえなかったそうです。
学校で放課後友達と遊ぶこともできず、イジメにも遭いました。

新聞記者だった父親は、少年時代、あこがれの存在でしたが、1億円もの負債を家族に残して失踪。
家族の中でも既に子役俳優として稼ぎ手だった坂上氏にその返済が重くのしかかりました。

父への憧憬は、怒りと憎しみの入り混じったものに変わり、
10年かけて完済したのち、成人したら俳優業にやりがいを見いだせなくなって、競艇や、酒に溺れていきました。
もしも、借金がなければ、とっくに俳優をやめていただろうと、本人も母親も吐露していました。

そして、2012年父の死。葬儀には参列しなかったという坂上氏。
俳優生活43年にして、毒舌で人気を博した2014年。
その人気の背後には、父との絆、好き勝手放題だった父から受け継いだ血が流れていることを
自覚せずにはいられないと、半生を振り返っていました。

自分は、遺伝子を引き継いで、家族の誰かに似ています。
家族の誰かに似ている自分と、尊敬だったり、憎悪だったり、家族へのどうしようもない思いが
それぞれに渦巻いています。

私も、鏡をのぞくとき、
自分の顔の向こうに、亡き祖母や、伯母への思慕がしみじみと深くなってきました。
そして、祖母や伯母が、今の私と同い年のとき、
どんなふうに暮らしていたのでしょう?

掃除好きだったかな?本をよく読んでいたかな?手紙を書くのが好きだったかな?
優しい人だったかな?それとも、冷淡なところもあったかな?
もちろん、私には祖母とも、伯母とも、ほんの幼い時に会っただけで、
覚えてもいません。
青いインク文字のお手紙を時々くださり、それが残っているだけです。

だけど、二人とも、きっと喜んでくださいましたよね。
会えなかった長い時間、きっと私のこと、時々は思い出してくださいましたよね。
私は鏡をのぞいて、
いつも、傍にいてくださってると思っています。

なんてことを、同い年の坂上氏のトーク番組から連想しました。
来年もお父さん譲りの毒舌で、活躍していただきたいものです。

そういえば、今朝、裁判所から郵便が届きました。
開封すると、なんと書記官と弁護士から、10月末で倒産したアルバイト先の会社の
「破産管財人」に選定されたとのこと。

はてさて、就活してダブルワーク再開しても支障ないものなのか?
最後のお給料、社長にまだ払ってもらってませんけど。


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2014/12/10 22:06 | 悶々 | Comment (0) Trackback (0) | Top▲