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2008/03/31 (Mon) 初出勤は田んぼの中
弥生の月も今日で終わり。
花冷えというのだろうか。
桜は5部咲きといったところで、今日の気温は、中国江南地方に比べるとひんやりしている。
自転車で朝7時40分に自宅を出ると、ハンドルを握る手や首筋に冷たい風がス~ッと入ってくる。
まだまだ手袋やマフラーは手放せない。

8時前に最寄り駅には到着したが、バスを1台見送ってしまった。
待つこと13分。
それから淀川を渡って斜め向こうの町に所在する新しい職場へと向かう新しい通勤路をバスは走る。

この道程は、実に久しぶり。(何年前かは言わんとこ・・・)
大学へ4年間通った道程だから、慣れていることは慣れているが、
通勤と通学とでは緊迫感が違う。

I駅に着くと、次は別のバスに乗り換えるのだが、バス停まで数百メートルも離れている。
小走りであと50メートルというところで、再びバスを目の前で見送ってしまった。
ここで、さらに10分待ちぼうけ。

そこからM3丁目行きのバスでさらに10分。
職場から最寄のバス停に到着した。
しかし、今度は信号という関所で足止めをくらった。

やばい。出勤時刻まであと15分しかない。
最寄のバス亭といっても、職場まで1kmも離れている。
土手に沿って、新幹線を望むのどかな田んぼのど真ん中に私を迎えてくれる新しい職場が見えてきた。

自宅から通勤時間は約1時間50分もかかってしまった。
地理的には、我が家の所在するところから職場まで10km以内のはずだけど、
正直言って、同じ時間をかけるならもっと遠距離通勤も可能である。
例えば、シャトルバスで関空や神戸まで行けるのだ。

ややこしい表現になってしまったが、早い話が、通勤手段は自動車がなかったらとても不便なロケーションに位置しているために、自転車とバス2台、徒歩15分という行程で、果たして通勤できるだろうか・・・という一抹の不安を覚えた。

それでも、最寄のバス停から小走りで15分。
久しぶりに走ると、年齢相応に息切れしている。
ギリギリセーフで新しい職場に辿り着いた。

私にとって新しいのは職場だけではない。
真新しい建物、新しい物品、新しいスタッフ、新しい仲間
何もかもが真新しい春だ!

「おはようございます。すみません。ギリギリになってしまって・・・」
「間に合ってるから大丈夫よ。ロッカーに案内するわね。」

新しい上司も、安心できる感じで、この業界では経験豊富な女性であるのが嬉しい。
更衣室には、Pさんの姓があった。
ゆきんこの場合、今回の就職は格別、苗字まで変わって真新しかった。
新しいスタッフに呼びかけられると、何でPさんの名前を私に呼んでるんだろう?
と思ってしまう。

・・・というのも、私は一つ屋根の下でPさんと暮らしていた時も、
半年以上は苗字で呼び続けていたのだ。
ふ~む。。。一体、いつ頃違和感がなくなるのかな?

まずは、入職に必要な書類を提出した。
ここでも、取得した資格・免許の類に、つい10日前に授与された最新の修了証明書までは全て旧姓だけど、銀行の通帳や身分証明書は随時、名義変更する必要があるのだ。

「施設長、すみません。まだ結婚間もないので、諸々の名義変更がこれからでして。
平日の3時まででないと銀行は終わってしまいますので、今日にでも手続きのために早退させていただけませんか?」
「いいですよ。今日は、開所前のセキュリティシステムの説明を聞いてもらうだけだから。」
「初日から勝手言いますが、宜しく御願いします。」

新しいスタッフも、初対面同士とは思えない気さくなメンバーでひとまず安心。
「何もかも新しい職場は、やりやすいよ~」
と同じ部所になった年配の男性スタッフが真新しい施設内を一緒に一部屋一部屋巡回して話しかけてくださった。
「ここは授産施設だけど、我々の担当は、更正施設とは違ってどこまで生活面の支援をするのかの
線引きが大切だと思うよ。」
「そうですね。学校じゃないし、生活は家庭での課題ですから、保護者のご要望も何もかもにお応えするのではなく、利用者の方には働く意欲も持ってもらうような支援を工夫する必要があるでしょうね。」
「ゆきんこさんは、どこから来てるの?」
「M町です。1号線沿いの。どこですか?」
「同じ市内のNだよ。」
「どうやって通勤しますか?」
「僕はバイク。」
「時間は?」
「30分かな。渋滞によってはもう少しかかるけど。」
「そうですか~。私、バスを乗り継いで1時間50分。」
「そりゃあ結構かかるなあ。僕より近いのに。」

階下に降りて、自立部門の担当スタッフにお伺いを立てた。
「え~と、私でできることは何でも仰ってください。」
授産施設ワーク☆の花形部門は、クリーニング。
保育業界から金融業界→専門学校講師を経て
実は、「はじめまして」の障害者福祉業界に仲間入りしたゆきんこ。

当然、本格的なクリーニング業務も初体験!
「それじゃあ、まずバスタオルを籠に入れてください。」
「まだ湿っぽいものもありますが・・・」
「いいですよ。まとめて、乾燥機に入れますから。」

親分のお達し通りにいくつかの工程に分かれた一連のクリーニング作業に参加した。
これも、本格的ながら、ABAで紐解けば、結構楽しめた。
タオルの乾燥作業
①タオルをハンガー吊りからはずす
②乾燥機に入れる
③スイッチを押す
④タイマーが切れたら、乾燥機からタオルを出して籠に入れる。
⑤タオルを2つ折りにたたむ

タオルたたみの作業
①タオルのロゴが表になるように4つ折りにたたむ。
②重ねて並べる。
③一段30枚で4段分、120枚をひとつの籠に入れる。
この作業はひらすら続けると、1時間はあっという間だった。

ワイシャツの作業
①アイロンをかける
②ハンガーに吊るす
③ハンガーからはずす
④ワイシャツのボタンをとめる
⑤ワイシャツをたたむ
⑥襟にボール紙の芯を入れる
⑦ワイシャツを袋に入れる
⑧プレス機で袋をとじる

なるほど~~~
いかにも自閉の皆さん方にはぴったりフィット感のある業務だろう。
2週間後には、この3月に地域の養護学校高等部を卒業した青年期の利用者の仲間たちにお会いして、一緒に働くことになる。
学校と違って、働くことの喜びを純粋に彼らと味わい直すことができそうな気がした。

何より、この部門を取り仕切る男性スタッフは、私よりもずっと気さくで爽やかな印象だ。
「うちのおばあちゃんがやばいんですよね~・・・それで、急遽、田舎に帰ってきました。一命はとりとめたんですけどね。」
「というと、まさか危篤に?」
「そうなんです。もう90代後半だから、今度いつ知らせがくるかわからない状況で・・・
ここが開所したのはいいけど、納期に迫られると心配だなあ」
「・・・」
ここで、なんと応答すべきかことばが出てこなかった。
クリーニングの行程には、もうひとつ「適当にいつも通りたたんでいいです」と指示を受けた洗濯物が
2山あった。
付近の老人ホームから委託されたお年寄りのものだ。
下着にもタオルにも全てその方の名前が記入されていた。
何となく、母の衣類もいずれはこんなことしなければならない日が来るんだろうか・・・
と顔も知らない他人の私が、洗濯物をたたんでいるのは妙な気がした。

汚れた洗濯物を洗ったり、畳んだりするのは子どもを預かる保育所でも家族の仕事だ。
だから、まだ他人であったPさんの下着を初めて洗った時にはことばに表せない妙な感覚があった。
「この人は、突然私の人生に現れて、なんで私に洗濯物を洗わせているのだろう?」

男性諸氏はそんなことに疑問さえ発しない。
クリーニングだって、そもそもは家庭内のアンペイドワークなのだ。
専業主婦はその任務を、パートナーに間接的に報酬を得て扶養される義務を負う。
Pさんのアンペイドワークに、誰も報酬を支払わない。
それが一体いつまで続くのかわからない。


ぼやくはずではなかったのだけど、、、
1時前まで作業を手伝い、スタッフみんなで昼食タイムを取ってから今日のところはこれで勤務を終わらせていただき、銀行へ出かけた。
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2008/03/30 (Sun) I先生の幻影
2008年3月も残り2日。
帰国したその夜はぐっすり熟睡して、旅の記憶をブログに一気に書き込んだ。

母は今回の長旅で「ボーダー認知症」を自認したようだ。
老化や長年の心労のためか、脳梗塞も数箇所あるらしい。
お土産話と引き換えに、裏のWさんも同じような症状だから、ご近所同士ということでお互いに喧嘩になったら、仲裁に入ろうと笑っていた。

明け方、夢をみた。
I先生の幻影だ。
どうして、こんな人生になったのか?
その源を遡ってみれば、やはりI先生へと私の無意識は戻ってしまうのだろう。
私にとって師事した師匠は数え切れない。
特に、今回の大学院での指導教員のY先生には、過保護すぎるくらいの懇切な指導を受け、感謝してもし尽くせないくらいだ。

I先生も今頃きっと新しい赴任先へと荷物をまとめたか、辿り着かれただろうかという時節を迎えていらっしゃるだろう。
もしも偶然、21日の学位授与式にI先生がお出ましだったらI先生が監修されたABA入門の本にサインをマンド(要求)しようと企んでいた。
けれども、夜間部に修了生のいない指導教員は参加していなかったので、多忙を極めているI先生の姿があるわけがなかった。

私が大学院への進学を果たさなければ、今の私はなかったはずだ。
Pさんと出会い、結婚することもなかっただろう。

そして、PCという神機やインターネットも発明されていなければ、それを介した出会いさえ皆無だったはずだ。
そもそも、かくこと(書く・描く)が大好きな私は、ブログがブレイクする以前の4年前から、メールのやりとりに興じていた。

お返事などはお構いなしに、単純なミーハー根性でI先生の研究室に直結しているHPに定期的に差し出していた。
その期間は、アテネ5輪が開催される以前の2006年から2008年の8月に及んだ。
しかし、大学院に入学を果たしたはよかったが実際にお目にかかれたのは、2006年度の後期に履修した「発達障碍心理臨床特論」と廊下で偶然に擦れ違うだけだった。

振り返れば、2004年には受験を志しI先生に対する追っかけ行動は我ながら恥ずかしいほどかなり
ヒート気味であった。
我ながら、受験を決し挑んだ日々は、どんなつまらない行動にしてもひたむきでいじらしい行動だったと思う。
その私を見守ってくださっていた多くの方々に、私は支えられて今日まで生きてこられたのだと思う。

2006年にブログを開設したことを機に、大学院を主とする日々の記録は、最早I先生への個人メールから「般化」したことになる。
現実には、I先生との接点など一切ないはずなのに、どうして忘れたはずのI先生は夢に現れるのだろう。
他の先生は殆ど全く現れることなんてないのに、おかしいな。

私は高校の校舎の屋上にいた。
時節は卒業式が終わって誰もいなくなった後の静寂だ。
セーラー服を着ているらしいので、卒業証書の円筒を持って、そよ風に吹かれて誰もいない校庭を
眺めて無為になっていた。

人の気配を感じて振り返ると、誰もいない。
けれども、私に気づかれないように屋内から屋上へ続く階段の上り口からじっと見つめられているのがわかった。
(心理学的には、なぜ、背後の人気がどの感覚でわかるのか実証されているんだろうか!?)
私は階段の降り口から階下を見下ろした。
すると、螺旋階段を降りる男子大学生の姿が過ぎった。
過ぎった瞬間、彼は屋上を見上げて私を一瞥した。
そして、螺旋階段を降りて姿を消した。

男子学生と卒業したての高校生の私は、初対面だった。
吸い込まれそうな一瞥の瞳は、彼が私だけを魅了しているのではないことはよくわかった。

I先生と出会ったのは、「オペラント」という懐かしいキーワードを言い放ってくださった医科大学の講堂だった。

以来、I先生が私に直接何がしかの行動なり、プロンプトをすることは皆無だったといっていい。
けれども、消去したはずのI先生はどうして夢に出てきては、私を誘い操るのだろう。
卒業証書を手にしたとはいえ、未来はすぐに見えてこない。
足を踏み出し、行動するしかないのだ。
高校を卒業してからの年月は、それまでの人生よりも超過してしまったのに、
私の新しい就職先は、巡り巡って合格を果たしたキャンパスのある街に所在している。

I先生も、私と同じ年に大学を異動されることになった。
ああ、もしかして、I先生。
私はI先生にお会いできないことがわかっていて、いつか差し出したメールで「夢でお会いしましょう。」としたためたことがありました。

ああ!
これは、私の全く馬鹿げた独りよがりでオペラントな夢分析です。
それで、先生は私を目前で不合格にした手前、ずっと気にかけて下さっていたのでしょう。
私があんなにも先生を慕って独学で研鑽した日々をご承知だったでしょうに、全くご褒美なんてない
現実に挫折しそうになり、ABA道を自ら断ち切ろうとした時も、やはり夢や幻影として私を見守ってくださいましたね。

なんという師でしょうか!
私はI先生に何ひとつとして師事していないのに、
夢の中でさえ、私を誘い諭してくださるなんて。
こんな信じられない師の中の師が現実にいらっしゃるとは、
ただ、畏れるばかりです。


2008/03/29 (Sat) 再見!中国
3月28日金曜日。6日目の最終日はモーニングコールは、5時30分。
上海のホテルで就寝前に母と諍いをして、眠りは浅かった。

前々から、母の認知症かも?という懸念は今回の旅の途でより明確化した。
どこにいるのかわからない。
何度も繰り返し、同じ質問をする。
私以外の他者の音声言語が聞き取れない。

これは正しく私の専門領域としてきた軽度発達障碍の様相と似て非なる徴候のオンパレードであった。
他者なら優しくできるのだけど、ブログにはしたためていない水面下の諸々の責任の重さやら、
いよいよの父母の老後に一人っ子の私としては、昼間はユーモアでもないとやってられない。

上海国際空港で手荷物を預け、ツアコンの蒋さんと運転手さん、王さんに握手を交わした。
「お世話になりました。」
旅は終わって、やれやれ一安心。
関空に飛行機が無事に着陸した後も、検疫・入国審査など、諸々の関所が年寄りには面倒くさいものだ。
「あら、パスポートがない~」

その度に、立ち止まり確認する。
新しい職場でも、これからも母と私の半生そのものを暗示するかのようでもある。

今回の旅でもお金には勘定できない諸々の面白体験が満載だった。
なんといっても「社長」をはじめとする「4人組」は、嘗ては工学の第1戦に寄与してきた方々であり、
童心?で今回の旅を興じていらっしゃるかに見えた。
特に最高に受けた工学博士の名語録は、
「社長は常務取締役で、僕らは、常時取り締まられ役」
吉本新喜劇はだしのボケと突っ込みのオンパレード
骨董品屋の前で高らかに笑った私に
「えらい受けたわ。」と博士も笑った。

毎朝、4時に起床しているという後継者のない農家のご夫婦。
共に白髪の生えるまでという仲睦まじい老夫婦。
中国贔屓の父娘。
一人身でも悠々自適に往復している中国通、海外通の参加者などなど。

「お疲れ様でした。」
「お世話になりました。」
「どうぞお元気で。」
今回の旅路もそれぞれの脳裏なり、愛用の録画マシンに焼き付けてそれぞれの塒に帰っていく。
日本人は日本人に生まれたことをよかったという人が概ねである。
けれども、他国に関しては日本を羨んで日本人と婚姻する人々も相変わらず増えている。
帰れる我が家がある。行きたいところがある。会いたい人がいる。
その時、その場所、その人との出会いが、我が人生を彩りのあるものにしていく。

歴史的には、過去の傷跡にどう責任を果たすのか、多民族支配の興亡によって、リベンジ暴動の絶えない世に経済と福祉の繁栄は在り得ない。
個人レベルでも、国家レベルでもルール・マナー・礼節と行動分析学が自ずとオーバーラップしてくるのだから、やっぱり相変わらず、ABAに被れているんだろうか?
他国には他国のよさがたくさんあるけど、
やっぱり、今回の旅は今までになく「日本人でよかった」と実感した旅でもあった。

午後1時には、関空のバスターミナルへ移動し、異国では1週間カメラ代わりにしか用途を果たさなかった携帯電話の電源を入れると、早速入っていたメールは、Pさんと旧友のOちゃんだった。
あれ?さっき挨拶して別れたのに「社長」は隣のバスにいらっしゃる。
私はバスの入り口から顔を覗かせた。
「社長、よろしければ名刺をいただけませんか?」
エコロジーと廃棄物処理が専門分野の「4人組」代表の名刺の裏側は、なんと使用済みのカレンダーを再利用していた。
お見事!

なぜ、今まで無関心だった工学の方々に関心をにわかに寄せているのかは、Pさんの遍歴によるところが大きい。

母は、最寄のクリニックで早速認知症のテストを受診した。
結果は、30点中22点と認知症ボーダーと診断された。

私と入れ違えにPさんは今夜、国内の遠方へと旅立つことになっている。
本当は、一緒に誘われていたハネムーン代わりの所用だったのだけど、
あんまりハードスケジュールは好きじゃないので無理せず、電話でPさんを送ることにした。
「それじゃ、気をつけて行ってらっしゃい。」
「うん。行ってきます。フフフフ」
「え?何よ。意味深な笑い?」
「あ、HP見た?」
「まだだけど。ブログ書いていたから。」

それでは、6日間の備忘録日記もこの辺で、
再見!





2008/03/29 (Sat) 江南6都市周遊モニターツアー6日間 第5日目上海
3月27日(木)5日目第6の都市は、国際商業都市上海。

「シャンハイ」だけは、日本語の漢字変換もそのままスムーズに変換できるお馴染みの単語だ。
前夜の晩餐では、「社長」と隣席した割には、あまり会話が弾まなかった。
そのレストランは、日本でも報道されたことのある有名な四川料理店だ。
有名な理由は、ピリ辛いバーボー豆腐ではなくその店のショーイングにある。
BGMにしては、大きすぎるビートの効いた現代風音楽に合わせて、レストランの中央でローラースケーターたちが、演ずる曲芸を見て楽しめるのだ。

リピーターの男性参加者によれば、3年前までは殆どのウェイターがローラースケートを履いていたそうだ。
従って、社長は、度々席を外しては、傍までデジカメのシャッターを切るのに余念がなかったらしい。

あまりにも華やか過ぎる店の雰囲気と辛すぎるのに品数が少なめであることに、あんまり満足感がなかった。
「踊り子って何だか切ないね・・・・」
「そうよ。踊り子は切ないよ。」

明けて、27日。
団体参加者は3名減って、15名になった。
午前中は、外灘と豫園。
外灘は、上海らしい景観を象徴するスポットのため、外国人観光客を狙ったみやげ物露天商がしつこく付き纏う。
そうした、不快感極まりない人々のお陰で不必要なオモチャと引き換えに財布の紐を緩めてしまう上に、嫌な印象がステキな景色を台無しにしてしまっている気がしてしまう。

田舎は田舎で地域格差があり、都会は都会で貧富の差が甚だしいのも中国だけでなく世界の永遠の問題なのだろう。
「千年、センエン!」
「サンエンですか?」
「タダなら買います」

街にはオリンピックTシャツもあれば、キューバ革命の申し子「チェ・ゲバラ」のデザインも垣間見えた。
ゆきんこだって生まれてこの方大阪だけど、
同じ商業都市といっても、大阪人の方が上海よりもビジネスセンスはあるんじゃないかと思ってしまう。

次なる観光名所「豫園(よえん)」では、しつこい商売人から逃れて暫し鑑賞気分に浸ることができた。
石畳といい、建築丸ごとが中様折衷のアーティスティックにうっとりした。
明代に建てられた豫園の見所は、中国様式の門構えに、欧式の手摺りが加わっているところ。

昼食までの豫園商場のショッピングも人込みだけで疲れてしまった。
さすがに、旅の最終日は疲労もピークに達するので、見るもの聞くもの食べるもの全てがMAXの飽和状態。
ちょっとでも商品に触れたら、店員が寄ってきて
「ヤスイデス」

経済や商売は、お客の満足感で決まるということを改めて知った上海流ビジネス。
その交渉スタイルは、オークションと全く逆で、売り手の方からどんどん値下げしてくるのだから、
一体、原価はいくらなのだろうと甚だ懐疑が膨れるというものだ。

日本の中では裕福ではないけど、無駄なもの、不要なものはいくら余剰があってもどんなに安くても
要らない。
寧ろ、お金では容易に手に入らないものを、どうやって手に入れるのか?
「手に入れる」というのは、私の心情に合わない表現かもしれない。
例えば、困ったときやいざという時に助け合えることは、他者を蹴落として生き残ろう、優れて富裕であろうとすることよりももっと大切で崇高な気がするのだけど。

私は諸葛孔明やら三国志の教えを全く知らない。
本当の賢人というのは、奢れることの怖さも知っているから実は小心者かもしれない。

しかし、旅のクライマックスはここ、上海でやってきた!
よくあることだけど、最後の自由行動で4時の集合時間を過ぎても現れない参加者が1名。
母と私など旅に不慣れな初心者は、「社長」の率いる4人組に引率していただき、結局、上海でも
日本でお馴染みの「ケンタッキー」でブレイクタイムをとることで、時間を過ごした。
運転手さんもツアコンさんも総出で、迷っているNさんを探しに出払い、その間、残された参加者が
心配そうに会話しながらで時を過ごした。
今時、「ビンボウだけど」と言いながら、海外旅行に興じられるのは、お金と時間を持て余す元気でイケてるインテリシニア世代には違いない。
そして、ピークを越えた初老賢人の知恵が結集した。すなわち、「明日はわが身」「他人事ではない」
参加者の慮りはことばとなって表出されていた。
「社長」率いる緊急対策本部が構えられ、すぐに公安(警察)にも要請した。

幸い、小1時間ほどでNさんは集合場所に戻ったのでこれもご愛嬌の旅のエピソードになった。
ことばの通じない海外で、「ここはどこ?私は誰?」というのがわからないと人の助けを要することになるのだ。
・・・といって、ことばのない社会的集団動物の方がずっと多いのだから、ニンゲンも動物ならば、ことばはなくとも通じればいいのだけど?

最後の上海の晩餐は、同じ旅行社のツアーでやってきた別のグループと鉢合わせした。
我々と正反対のコースで江南の6都市を巡回し、そのツアーグループは初日の晩餐ということだった。

初老の母との海外の長旅は、もうこれで終わりかもしれない。
旅先で、少々のハプニングはご愛嬌。
でも、100%命の保証はないのだ。
0%でない限り、結局無駄なんだけど、保険に入るし、それでフトコロを温かくしている金融ビジネスマンも元気な人々のお陰で生きている。

最後の晩餐の後は、OPで雑技団観賞に出かけた一群と「ザイチェン(再見)」と別れ、
ホテルで運転手さんにも「ザイチェン」と別れた。









2008/03/29 (Sat) 江南6都市モニターツアー6日間 4日目 無錫
3月26日水曜日
その朝はイレギュラーでスーツケースだけ7時前にロビーに提出することから始まった。
そのまま、1番乗りでレストランで朝食バイキングを食べようとした時、
先客だった黄土色の袈裟を身に纏ったお坊様と目と目が合って、手招きを受けた。

お坊様は赤い袋に入った金メッキのお札を出して、ゆっくりとメモ用紙に「供養」「善良」と書いて
説明した。
私もよくわからずに、お札を受け取った。
弟子のような連れの僧侶が財布を取り出し、お金を見せた。
私は、笑顔で「sheshe」とその場を去って、母と食事を始めたが

「お札をもらっちゃった。もしかして・・・お金を払わないといけなかったのかな?」
「ビジネスじゃないけどね。」
「お財布をチラチラさせていたから、やっぱり払った方がいいのか」

時間と共に、宿泊客が増えてきたけど、お坊様は他のお客を手招きする気配もない。
偶然、私に「格別の」とは思わなかったけど、なんだかタダでいただくのも気がひけたので
後から心ばかりを寄付することにした。

一足先に、王(ワン)さんは我々のスーツケースと共に専用バスで次の旅先へと出発した。
ツアコンの蒋さんと参加者は別に手配されたバスでホテルから南京駅へ向かい、
そこから、まずは手荷物検査を受けた。
中国の新型高速鉄道CRHのモデルは日本の新幹線だ。
バスでは殆ど居眠りで景色を見ていなかったのだけど、ここでも中国の壮大さを実感した。
ひたすらに続く3月下旬の大平原は、概ね黄色い菜の花で彩られていた。
そして、桜も殆ど満開だ。
大豆・麦を主とする畑の中に集落が時折、目に入り、日中の合弁公司(会社)や高速道路とも交差した。

最高時速250KMで、1時間10分後には、5つ目の観光地「無錫(ムシャク)に到着した。
ムシャク駅では、先回りの王さんと運転手さんが待っていて、再び専用バスで観光。
4日目あたりから、観光の合間に関所のショッピングも待ちかねていることが増えてくる。
「ビンボウ旅行なのに~」
ムシャクは、太湖という琵琶湖の3倍の面積に相当する湖を臨む観光地だとか。
日本でたとえるなら、三重県みたいな感じで名産品は真珠。
それまでも、強制的にコースに入っているみやげ物店では「チェシャ豚」みたいな豚の置物を目にしていたのだが、
申し訳ないことに、「ゆきんこに真珠」というくらい面白くなくて、母と一番に屋外へ出てしまった。

無理やりコースに含まれている専門店巡りは、格安ツアーの場合、免除されないらしい。
そのうち冗談で「トイレもコースに含まれています。」
と女性陣の「連れション」行動も強化されていった。
海外旅行の場合、女性として最も不便なのは何といってもトイレに尽きる。
やっとトイレに駆け込んでも、紙がないのが中国の常識。

それから、遊覧船で太湖からムシャクの街を一望した。

4日目は、新幹線あり、遊覧船あり、パールとシルク紡績のショッピングあり、そして、バスで日暮れには上海に戻ってきた。

さすがに旅の疲れも溜まってきて、母とぼやき始めた。
「ちょっと長すぎたな~・・・そろそろ帰りたい」

5日目、上海へと続く。。。

2008/03/29 (Sat) 江南6都市周遊モニターツアー 第3日目 楊州・南京
3月25日(火)、中国江南の旅も架橋に入ってきた。
架橋というのは、心理学の記憶の分野においても一番曖昧糢糊としてしまうことが実証されている。
認知症かも?の母に質問したところ、やはり既に忘却の彼方だ。

楊州観光は、午前中、大明寺と楊州博物館で小1時間を過ごした。
大明寺は、日本でもお馴染みの鑑真和尚で名高い寺院である。
観光客も自然日本人が多いとのこと。
唐代、はるばる楊州の彼の地から、日本に着陸するまで6回目の渡航で成功した。
今は、私のようなちびっ子おばさんでもスイスイと飛行機とバスを乗り継げば、ものの3日で観光が楽しめる。本当にありがたいことだ。

楊州博物館は、2006年10月に開設されて間もないそうだが全般的に科学技術においては日本の最先端の功績は大きさを感じる。昨今、GNP率が中国に比して低迷しているとはいえ、「美術館」が好きな私としては、どうしても退屈気味になってしまう。

入り口を中心に二つの館の左側に殆どの参加者が入っていったが、母と私は右側から入館した。
楊州の町の縮尺立体模型地図が1階フロアいっぱいに展示されていた。
図画・工作といえば、絵画に興味が偏っている私としては、模型や彫塑の類は生来的に関心の対象にはなりにくいようだ。

楊州を後にして、バスは正午には南京に入った。
飲茶を楽しんだレストランでは、アメリカの女子高生の修学旅行らしい集団とも隣席になった。
そこでは、動脈硬化や高血圧に効果があるという宣伝にほだされてナツメを3袋100元で購入した。
因みに現在の外貨は多少、円高傾向で1元が約15円に相当する。

午後、世界文化遺産に登録された「明孝凌風景区観光」を楽しんだ。
さすがに世界文化遺産とあって、さまざまな世界各国の観光客と擦れ違ったし、一番楽しめた観光地だった。
また、世界遺産に登録されている地区というのは、そのスケールが壮大だ。
けれども、こうした周遊ツアーで楽しめる範囲は時間は小1時間、空間も極有名な箇所の周辺をチョロチョロして写真を撮れば「はい、おしまいで~す!」という感じである。
効率最優先のお楽しみ袋方式のパッケージツアーだから文句は言えない。

「霊谷寺」は、早い話が、南京大虐殺の果てに殉死した軍艦の慰霊が祀られている。
戦争経験者である母は常に感傷的に被害者や弱者側の心情を慮るが、単に憂うのではなく、戦争のメカニズムや根源を正しく知り、人類普遍の恒久的平和のために具体的には何をすべきかは、未来人に託されている。

このとき、参加者同士でも過去の戦争に対するコメントのやりとりがあった。
「史実は正しく伝承し、政治や教育に対して自分なりの考えを持つことが大切だ。
ニンゲンにとって最も危険なことは、自分も相手も蔑ろにして毅然としなくなることだ。」
と「4人組」の社長さんと話した。
「先日、私の町に国際ジャーナリストの江川証子さんが講演会に来ました。彼女は海外のマスコミからしばしば、『オウム真理教』と『アルカイーダのNY襲撃事故』との相違についてコメントを求められるそうですが、さて、何と答えたと思われますか?」
「う~ん、なんだろうな・・・」
「答えは、相手に対する『憎しみ』だそうですよ。」
「そうかな?そんなに単純ではないと思うが。」

なんていうウンチク話ができるのは、海外における知的好奇心を小父様方と楽しめるゆきんこ流の
旅の醍醐味のクライマックスかも?

25日はスケジュールも満載で、さらに夕方から日暮れにかけて南京城の「中華門」を訪れた。
それまでジョークで参加者を賑わしていた「社長」さんは、ゆきんことの会話に関心を示してくださったらしい。
中華門では、社長さんと母と3人で話しながら、展示物を鑑賞した。
「あなたは何だかその辺の普通の女性とは違うね。」
「そうでしょうか?」
「きちんとした考えをもっているようだ。お仕事は?」
「福祉です。障碍児保育の。4月からは成人の方の施設で働きます。」
「専門は何?」
「心理学です。この春修士になったので、この旅行は修了記念にきました。ドクターになるには、母がいい加減にしろというので、もう働きます。」
「そう。私の妻も音楽療法士として活動しているよ。」

さすがに加齢とは関係なく、「亭主元気で留守がいい」世代らしき海外赴任で鍛えられた見識の深い日本の紳士方には敵わない。
聞くところによると、代表取締役「社長」をはじめとする4人組は錚錚たる吾人であることがわかってきた。
他の御三方も、工学の世界では博士号をもつ有名人だとか。
それにもかかわらず、(そうとも知らず)終始、お茶目なジョークやユーモアたっぷりのコメントで他の参加者を笑いの渦に引き込んでいた。

とっぷり日も暮れると、さすがにバテ気味になってきた。
塩漬けが特徴的な南京ダックも賞味したけど、その後も「夫子廟」へ繰り出し、南京で一番賑わう繁華街を散策した。
母と私は、「社長」とお近づきになったことで「4人組」ご一同に加わらせていただくことにした。
何かにつけ、「あら、どこにやった?ないない・・」とか、
「部屋番号わからへん」
「これなんぼやった?」
「どこで買ったっけ?」
「もう忘れた、ヘヘヘ」を連発し、

「その質問、もう4回目!!」
とムカついてくると、最早少々ご迷惑を承知でも、第3者に介入してもらった方が事なきを得るものだ。

旅先では何が起こるかわからないので、多少のジョークやユーモアで難題を解決しようとするのが、
工学でも心理学でも極意なのかもしれない。
人生という大きな長い、けれども終わってしまえば、あっという間の旅も同じかもしれない。

南京といえば、「玉簾」とか「ドテ南瓜」「大虐殺」とイメージがあまり涌いてこなかった。
人口の規模は日本の神戸に相当するようだ。
揚子江流域の南端に位置する実際の南京という街の印象は、夜の歓楽街を散策したせいか、北京よりもかなり陽気な明るさを覚えた。
偶々かもしれないが、上海のような貧富の差も目に見えてなく、悪質な押し売りもなかったので、中国の中でも治安も悪い印象がなかった。
もう1泊するなら、大抵上海止まりになってしまうだろうから「南京」とアンケートには答えた。

6日間中、最も過密なスケジュールの3日目だった。

次回、4日目 南京から無錫へ に続く

2008/03/29 (Sat) 江南6都市周遊モニターツアー6日間
第2日目
日本を発った朝も、7時前に起床したが、旅先では団体行動と公序良俗が不文律であり鉄則だ。
モーニングコールはいつも6時半。
周遊ツアーのため、荷物は毎朝、スーツケースに詰めて、忘れ物の確認が不可欠。
お陰で、今回の旅は10月以降時間を気にせず、少々不摂生になりがちなプーおばさん大学院3年生だった私にとっては、体内リズムも整い、4月の就労に向けてリハビリ効果満点だった。

「おはようございます。」
ツアコンの蒋さんがロビーでお客さんを待機する。
「ツアコンのお仕事大変ですね。私の親戚が旅行社に務めているのですが、彼女は窓口カウンターです。」
2000年のモンゴルの旅でも感じたことだけど、ツアコンという仕事は、実に多彩な手腕を要しながらもコンビニ営業で酷使される職務だと「お客の立場」ながら感慨深くなってしまう。
日本語学歴20年を誇る蒋さんのバス内での説明も、立派な地理歴史の講義には違いない。
その後、日本語教師の資格を取得した私としては、蒋さんが人生行路と共に、どんな過程で堪能な日本語を話せるようになったのかも含めて興味深いものだ。

2日目のことは実は殆ど印象に残っていない。
なぜなのか、振り返ってみると殆どバスの中で居眠り状態で過ごしたからだろう。
バスで移動の走行距離も約255kmにもおよび、中国のスケールの大きさを肌で実感できた。

それでも、シータンの午前から、旅仲間の面々が笑顔とユーモアに毒されていった幕開けでもあった。
前夜、散策した町並みを日中再訪するとまた違った風情が楽しめた。
「中国は開放されたとはいえ、まだまだ問題が多い。」
と蒋さんはしかめ面で、お国事情を語った。
よくわからない工事途中の古鎮の入り口で入場料を払ったのだけど、
入った先は、地元の人々が水郷の周辺でそのままの暮らしぶりを公開しているのだ。
つまり、「突撃、うちの晩ご飯」みたいなプライバシーも何もない人民の有様が観光なのだ。
そこでは、「開放」以前の木のオマルとか、下水処理しているのかいないのかわからない手洗いの洗濯風景が見られた。

途中、4人の紳士が小間物屋で足を停めて、面白いお買い物をした。
母もその品が気に入って10元で買ったので、お店の小父さんにとっても、思わぬ臨時収入になったかも?
その品とは、モクセイの動く玩具だ。
おしゃもじ方の平板に5羽のニワトリが餌をついばむ仕組みになっているのだが、
嘴に糸がついていて平板の下で束ねて錘で引っ張っている。
平板を水平に揺すると、錘が遠心力で回転し、糸が伸縮するのでニワトリがクビを上下させる動きが
単純に笑いをそそるのだ。

以後、「4人組」と称される方々には大変、お世話になりました。

少し、余裕があるということで、「石皮弄」という幅50cmあるかなきかの狭くて古い街路に隣接する
遊覧船を楽しもうということになった。
しかし、シータンの人々はビジネスライクに物事を運べないのだろう?
ボートはなかなかやってこなかった。
自称「せっかち」の蒋さんが遅れてやってきた船頭さんに怒りを顕にしたら、今度はお客に向かって
「どうも大変お待たせしました。」

日常から外れた旅先では、何が起こるかわからない。
今回、旅の仲間はかなりいいメンバーで構成されていたらしく、何が起こっても「まあまあ」という悠長なムードがご愛嬌だった気がする。
それに反して、13億人以上もの人民がひしめき合って生きている有様が、唾を吐き掛け合ってコミュニケーションを交わすお国柄や人となりに自然反映されている気がした。

バスで鎮江へ移動した。
長江流域は、日本の自動車産業では、ホンダ、スズキ、ヤマハなども進出している。
まず、腹ごしらえで昼食のレストランで一番最後にバスに降り立ったとき、母にとっては今回の旅で最も印象的だった出来事があった。

まだ20代前後の若い女性アシスタントの王さんと運転手さんまでが、眉間に皺を寄せて年老いた男性を追い払ったのだ。
ホームレスと思しき男性は、白いカップを参加者たちの前に差し出していた。
母は、王さんに「そんなことしなくってもいいでしょう。。。」
と一度入ったレストランを出て、男性の白いカップの中にパンを入れた。
「謝謝」

観光地はどこに行っても由緒も見応えも満点だ。
旅人はそれを自身の目に焼きつけ、昨今は、デジカメやビデオにも収録し、更に長期記憶として繰り返し再生して味わいなおすこともできるようになった。
毎食、円盤の上を回転する中華料理も美味しいのだけど、ご馳走のグレードが上がるに連れてなぜかしら脂ぎっているチャーハンや諸々の珍味に舌先は次第に鈍化され、食欲も減退していったように思える。

だけど、自分も含めて他者に与えるほんの一瞬の何気ない言動の方が、やはり専門を究めただけに鋭敏になっているのかもしれない。
そして、認知症かも?の老齢の母にとっては観光名所よりも後者の方が、尚、印象深い旅になったようだ。

昼食後、鎮江での観光目玉は「金山寺」だ。
中国の有名な寺院は修復も行き届いていて、赤いボンボリ飾りと金箔の仏像が鮮やかだ。
金山寺の最も高い塔の螺旋階段を上がると、そよ風が吹いていて鎮江の街を一望できた。

それから、宋街での散策を小1時間したようだが、私も全ての旅の行程を思い出すことが難しい。
また、思い出したら付記することにして、スレッドをかえよう。
そうそう、宿泊地の楊州は、ホテルの居心地が一番快適だった。

次回、3日目南京に続く



2008/03/29 (Sat) 江南6都市周遊モニターツアー6日間 1日目 西塘
23日午後11時15分。
まずは、関空団体カウンター阪急交通社「トラピックス」看板前に無事に到着した。
空港という非日常な空間はそれだけで気分が高揚し、自然ワクワクともまた自律心も涌いてくる。
「通路側と窓側どちらがいいですか?」
「窓側で・・・」

旅先ではいつもトイレを気にしているくせに、母は飛行機の上空から地球の景色や雲の様子を眺めるのが大好きだ。
結局、以後のバス、列車などの乗り物では常々、VIP席をキープしてはありがたいことに同伴のミドル世代の方々にいろいろのご配慮をいただいていた。

関西国際空港発 13時15分CA922 空路、上海へ旅立った。
私にとって中国は2回目。
1回目は、確か2000年の失業間もないお盆の時節だった。

2時間30分後の上海空港は、その時の着陸した北京と比較して実に賑やかで大きな商業都市の玄関口という第1印象だった。
飛行機から直接、タラップの階段で地上に降り立った。
風が強く吹いているが亜熱帯のせいか、もう冷たく感じなかった。

とにかく、国籍を超えた人々の流れと目についた解読できる漢字と英単語を頼りに、入国審査→荷物受け取り→トイレ→両替→空港出口へと進む

2時間半で気軽に行ける隣国とはいえ、ことばと文化の違いの隔たりは厚い。
その間、母とはぐれないようにするために、自然、警戒心やストレスが高まってくる。
自国では滅多にしない母・娘の手つなぎ・腕組み行動が旅の経過と共に強化されていった。
出口付近では、オリンピックには時期尚早かといったムードで世界各国の旅人を出迎える人々が花道を作って旗やネームプレートを掲げて待ちかねていた。

「ゆきんこさん?」
と、これから1週間お世話になる現地ツアーコンダクターの蒋さんに参加者の確認をしてもらった。
ここで、はじめて同行の他の参加者ともご対面。
少子高齢化社会の象徴か、私も結構いい年のはずだけど18名の参加者の中で2番目に若いと見受けられた。
18名中、悠々自適シニア男性の参加者が多かったのも印象的。
夫婦や親子よりも男性同士の友人・知人のペア参加が多かった。
確かに、日常の気分転換を図る旅には、気心の知れた気の会う他人と、
見ず知らずの旅仲間が一堂に会して、寝食を共にすることに醍醐味があるのだろう。

日本のなかでは通り過ぎてしまう異世代・異姓・異業種の交流は、同じ日本人同士であっても「旅仲間」というにわか共通項で、話題には事欠かない。

また、話題なんて実のところ必要ないことの方が多い。
タイムスケジュールは、小刻みに朝から晩までびっちり管理されているけど、
次はどんな交通手段でどこへ行く?何を見て、何を食べる、何を買う、
旅は、何から何までが生涯学習・総合学習の過程であり、ストレスフルでいて面白くて楽しい。

「蒋介石と同じ蒋です。」
とバスの乗り組み員一堂に50代半ばのベテランツアーコンダクターの男性は自己紹介した。
それから、イケ面風の運転手さんとアシスタント兼専属カメラウーマンの王さんがお世話してくれることになった。

上海から一路、約140kmもの距離を西塘(シータン)という町までバスは走行し、1泊した。
この西塘(シータン)という町のツアーは、まだモニター段階で、中国側もこれから観光地として発展させていく知られざる観光スポットである。
そのため、今回の海外の主要な観光地になれているシニア男性陣にとっても、1泊目のいなか町にどんな評価を下したのだろうか?

1泊目のXIANG HOLLYDAY HOTEL のロビーで手渡されたアンケート用紙の意見が今後の旅行社の企画主旨に多いに反映されるだろう。

昨今、オリンピックを控えているのにチベットでの暴動でかなり世界の顰蹙をかっている中国事情。
日本人としてなのか?いっちょかみマスター研究心が動くせいか?
言語の違いを抜きにしても、ちょっとした所作や文化に違和感を覚えた。

地図にも載っていない片田舎で1泊目のホテルのお客はどうやら我々だけらしい。
とにかく、ツアコンの蒋さんが声を荒げないことには、日本では在り得ない根本的なサービスが
処されないのだ。

食事のお品書きはどこにもない。
紙もない。
ご馳走はまずくもないけど、美味しいともいえない。

「どう?おいしい?」
蒋さんが笑顔で聞きに来るので、一応
「ハオ(良い)」
「ハオチー」
「マシッソヨ」
「それ、韓国語でしょ!?」

なぜかビールだけは、日本に比べてアルコール度数も低いのに、現地価格の10倍もする。
「ねえねえ、どうして私たちの席だけ照明が消えているのかな?」
控え室もないので、食堂のウエイトレスがお客の真横で立ち話をしていて、その真上には煌々と明かりが照らされている。
なんとなく中国の人々って、無頓着なんだろうか?
という偏見が沸き起こると同時に、旅仲間の他愛ないジョークやユーモアにのせられて、
シータンの夜は更けていった。

夕食後は、小1時間の古鎮散策に繰り出した。
この地方の人々の暮らしぶりは、戦前生まれの母が日本でたとえるなら「昭和初期」のようだ。
電気もガスも必要最低限のインフラはあるらしいけど、まだまだ不十分。
夜店は、昔ながらの木造家屋でシャッターも立て板で一枚一枚蓋をする古式ゆかしいスタイルだ。
外灯もほんのりと提灯が点されていて、足元が真っ暗でよく見えない。

初日は、見ず知らずの結束間もない団体だから、母と私は散策を十分楽しめず、集合場所付近を
行き来するだけで無難に過ごしていた。

2日目 鎮江・揚州へ続く





2008/03/29 (Sat) まるで独身のような新婚旅行!?
学位授与式を済ませて1週間、3月23日~28日まで日本を離れ、中国・江南6都市周遊モニターツアー6日間の旅から帰国しました。

2月15日に論文の再提出を果たした直後から、就職活動もしましたが、
とにかく頭をすっからかんにして心のお洗濯。
自分で自分にご褒美を兼ねて、就職する前に、どんなに切り詰めても是非とも卒業旅行を実行したいと思っていました。(まるで20代の若者の台詞・・・)
そこで、大学院の小さな図書室を出た後、真っ先に向かったのが、いつも通りすがっていたツアーカウンター。そこで、海外旅行のパンフレットをピックアップしました。

でもこの旅行、実はハネムーンにはならなかった。
もちろん一番に誘ったのは、Pさんだったけど、お金も時間もないとの理由で案の定断られた。
次に誘ったのは、学友でJAICAでも活躍してきたNさん。
彼女はしばらく考えてやっぱりPさんに準ずる理由で同行できないと断りを受けた。
私も現状としては、PさんやNさんとあまり変わりがないはずだけど、結果として実行できたのだから
やはり余裕があるのかもしれない・・・
今までの旅の仲間だったOちゃんは、結婚して簡単には会えないし、
他の友人・知人は殆ど既婚者で子育て最中だったり、時間の制約もあり誘えない。
明らかにハネムーンではなく、「卒業旅行」の名目で一緒に電話予約をした同伴者は、結局実母ということになった。

しかし、23日出だしからハプニング
どうやらもうすぐ認知症かも?の母は、セッカチなのでバスを降りた途端、特急に乗り込みたくて
走り出した。
スーツケースでのこのこと後追いしたが、もう人込みのなかに母の姿を見失い私も早合点して
発車間際の特急に飛び乗った。
それから、車内を探したのだけど、ご近所で着物姿のIさんには出会ったのに母は乗っていなかった。
「おはようございます。母とはぐれてしまって・・・」

K駅の窓口案内に問い合わせ、H駅に連絡し呼び出しを依頼した。
約20分後、母がエスカレーターから手を振って現れ、事なきを得た。
けれども、余裕綽々で自宅を出発したはずが、関空の集合場所には時間に猶予がなくなり、
結局、天王寺駅から特急はるか号を利用して、11時15分ジャストで間に合った。

一期一会の集団旅行は、ツアーコンダクターと不意の旅行仲間とのチームワークで大いに旅の味わいは違うものだ。
また、母と同伴の海外旅行は、ハワイ、シンガポールに続いて3回目だけど
もともと私ほど、交通機関や旅に不慣れなこともあり、更に70代に入って耳も遠くなり短期記憶力の
衰退が甚だしい・・・・ということを親子で再認識した旅だった。

次回に続く・・・



2008/03/22 (Sat) 平成19年度学位授与式
春麗ら
今日から甲子園球場で選抜高校野球大会が開幕した。

公私共に、出会いと別れ、そして自分自身が内面と外面とが脱皮している今日この頃だ。


21日もうすぐ正午というギリギリの午前11時40分ごろPさんに電話をかけて出発した。
「おめでとう。今まで、3年間がんばったね。」
「うん。大学院に入学していなかったら、Pさんには会わなかっただろうね。
それじゃ、今から行ってきます。」

午後2時。
待ち合わせ場所は阪神岩屋駅
ぽかぽか陽気だけど、風力はいささか強めで交差点を行き交う人々の上着の裾をあおり、
ヒュウ~と音がなる。

しかし、お相手のSさんは運転中なのか、携帯がなかなかつながらず結局、落ち合ったのは
目的地の「兵庫県立美術館」

論文作成の真っ只中からテレビをチラっと見ては、開催中に絶対鑑賞したかった「ムンク展」に
学友のSさんを誘っていた。
なぜなら、「社会人大学院生」という特権が使えるのもあと10日。
どんな特権かといえば、学割の利く入場料だ。
一般社会人なら1000円だけど、学生なら前売り券を購入すれば700円。

まだ建てられて数年にもならないという真新しい美術館の3階へ入った。
「Sさん、ムンク好き?」
「嫌いじゃないよ。この前は日本画を見に行ったんだけど、私は洋画の方が好きやわ。」
「もしかして、神戸の浮世絵?」
「そう。洋画はサイズも大きいし、大胆だから」

平日の午後ならかなり人手も空くだろうと予想していたけど、案外多くの人々が鑑賞に訪れていた。
1年前には、Pさんとダリ展を鑑賞したのだが、どんな作品展に誰を誘うのかによって随分鑑賞のしかたは違うものだ。
Pさんは、何事につけ一度集中すれば、結構とことんのめりこむところが、ゆきんこのそれを凌駕しているな~と尊敬している。
鑑賞時間もじっくりゆっくり殆ど私語もなく一つ一つの作品を堪能しながら鑑賞していた。

Sさんと私の共通の話題は、大学院仲間同士でどうしても「研究」になる。
Sさんは、修士論文の作成と同時進行で3月上旬に、博士課程の受験を終えて進学先も決まったところだった。
だから、話題は目の前の「ムンク」の作品に集中できず、且つ鑑賞者の数が多いと気が散ってしまったことが、かなり残念だった。

本当にゆっくり鑑賞したいなら独りでくるべきかもしれないけど、そもそもかしましいからやっぱり
誰かを誘って、その場で見たまま感じたままを述べ合える友人と鑑賞したいのが、ゆきんこ流。

本物を直に眼にする醍醐味は、ブラウン管や印刷物からは感じ取れない、作品そのもののオーラや
アーティストの筆の質感をとらえることができることにある。

ムンクの「フリース」には、ムンクならではの筆づかいだけでなく、やっぱりあふれ出てくる何かがあった。
そのあふれ出る何かというのは、一言でいって「カリスマ性」というのかどうか適合することばは
見当たらない。
「職業的にはアーティストと研究者って似ているんだって。」
「テーマに沿って何もないところから順序立てて作品に仕上げていくものね。」

確かに、人を惹きつける魔力というか、魅力というか目に見えない「それ」は何だろう?
やっぱりオーラですか?
若き日のムンクは、漠然とした不安と死と隣り合わせにある生を描き、寧ろそうした作品が彼を有名にしたのだろう。
だけど、私は年を経て明るい色彩でおおらかに描かれた作品の方が断然好きだ。
清清しい空の青と緑、憩いの公園で抱きあう男女のモチーフは安らぎを感じる。

因みに、私自身の論文自体も、加齢と共に自身のキャラクターの変化も織り交ざってきたように思う。
1作目の学部生時代は、「生き方についての一考察」というテーマで、病気、自殺、殺戮のノンフィクションを取り上げた実にネクラなディスカッションで検討した。
今回3作目は、1万年も共生してきたイヌが子どもと大人をつなぎコミュニケーションを活性化する一助になるだろうという観察データを収集した。

ショップでは「不安」というタイトルの絵葉書を1枚100円で買った。

Sさんの車で移動し、最寄のマクドでハンバーガーを食べた。
それから、午後5時30分。20日ぶりに海沿いの大学院へ到着した。
修了式1時間前の館内は、いささか厳かな雰囲気に包まれていた。
ガラス扉を開けて毎回挨拶を交わしていたMさんも濃紺のスーツ姿だ。
「こんにちは。その後かぜはどうですか?」
「ありがとうございます。でも、花粉症はもう10年くらい毎年・・・(笑)」
「あ~、花粉症じゃない人の方が珍しいかもしれませんね。
修了しても出没すると思うのですが、もうお会いする機会が少なくなるのは淋しいですね。」

おさわがせ大学院生だったゆきんこ。
年若いのに凛としたMさんにいつもご厄介をかけては、私語も挟んでちょいとコミュニケーションを楽しんでいた。
お陰で、PさんだけでなくMさんもよく笑って接するようになった。

ここからが、最後の最後まで大学院生魂の抜け切らないところ。
お決まりの図書室のテーブルの端にカバンとコートを置くと、
まずは、常連院生のNさんの隣に腰掛け、PCの暗証番号を入力した。
「もう来てたの?先日はありがとう。その後、どうなった?」
「どうって何も・・・」
「じゃあ、アルバイト登録?」
「うん・・・多分ね。あなたは?」
「4月から働くよ。」
「決まったの?」
「うん。もう保育所じゃなくて今度は18歳以上の障害者の施設。」
「ふ~ん、よかったじゃない。」
「ありがとう。ところで、入ります?」
「何が?」
「『結婚しましたハガキ』作ったんだけど、もし迷惑なら受け取ってもらわなくてもいいし。」
「ええ、まあ、どっちでも・・・」
どっちでもという返事の場合、通常判断に迷うけど、Sさんと共に論文作成の渦中を共にした
同世代の印に手渡すことにした。

それから専門学術誌を陳列したコーナーの4月号を物色したり、いつもは目を通せなかった臨床心理学関連の文献の目次をざっと見て、関心の高い項目をいくつかコピーした。

面識のある人にはもちろん、Pさんが手作りしてくれた私の真新しい名刺を配れるだけ配った。
「3月3日に名前が変わったので、それも兼ねて・・・」
「あら、ホントに名前変わって結婚したの!それはダブルでおめでとうございます。」
そういえば、狙ったわけでも何でもなく、婚姻と大学院修了は殆ど同時に押し寄せた人生の2大イベントには違いなかった。

他コースで殆ど会釈しかしていなかった遥かに年配の同期の修了生の方々も新姓になった私の名刺を快く受け取ってくださった。
「まずはHPにアクセスしてください。それから、できましたら掲示板にコメントも御願いします。」
こうして、名刺を配布していたら、1時間はすぐに経過してしまった。

6時30分。
式典会場の講義室4・5に移動する人々が次第に集まった。
入り口で事務係りの方に学籍番号と名前を告げると、パンフレットをもらった。
なんと各コースごとに指定席になっていて、私は最前列の7番目だった。
真正面は教壇に金屏風、向かって右端に学旗と左端には、日の丸が掲げられていた。

「いやだ~・・・一番前なんて」
既に中央に陣取っていた2番目に在籍数の多い生活・健康系コースの面々は余裕でスタンバイしていた。
しかも、5分前になっても同じコースのMちゃんもY先生も姿を現さなかった。

事務連絡がアナウンスされていた開始寸前に、両隣の同期生も着席した。
「おめでとうございます。すごいですね。ご結婚も決まって。」
「既に2児のヤンママのあなたに言われたくないわよ。」
「これから子どもはどうするんですか?まだ産めますよ。」
「それも、セクハラオヤジの台詞!パシッ!!」
そのはしたない暴言と同時に博士帽のいかめしいお偉い先生方が参列して目の前を通過された。

午後7時。会場は静寂に包まれて、「平成19年度学位授与式」が開式された。

式次第 開式の辞
     学位記授与
     学長式辞
     修了生代表挨拶
     来賓紹介
     閉式の辞

学位記を授与された社会人大学院生は総勢50名
そのうち、ゆきんこの所属する幼年教育コースは6名だった。
学長のK先生が花粉症で喉を痛めておられるのをおして、一人一人丁寧に読み上げて、厳かに
授与してくださった。
「おめでとうございます。」
「ありがとうございます。」

続いて、学長式辞
「皆様に餞のことばを2つ申し上げます。ひとつは昼間の大学院生へ、もうひとつは学部生へ贈った
餞のことばです。」

クリスチャンでもあらせられる学長のK先生は、ひとつめに「最澄」の教えをわかりやすく説いてくださった。
足元の自身にできるささやかなことを責任をもって行うこと。
現行の政治に象徴されるように、大事業や壮大な構想があっても、実行できなければ多くの人々を混乱させるだけである。
しかし、どんなに小さなことでも自分のできることを確実に実行し、責任を果たすことが肝要なのだと
説いてくださった。

2つめには「REFLECTION」自省、ふりかえるということ。
社会人大学院生として入学するまでの道のり、学業を終えて歩き出す道のり、
その岐路に自分自身の生涯学習の過程をふりかえることが大切だ。
常に振り返り、心を耕すことしてほしいと説かれた。

10年前の修了式の祝辞のことばも蘇った。
そのことばは「Think Glovaly Act Localy」だった。

式が終わるや否や、職場では教鞭を執る方々も役割変わって「先生も学生」の修了生たち
とりわけ、多数派の教育臨床心理学コースの袴姿艶やかなセラピストの女性陣が、
金屏風の前でデジカメ撮影を躍起に始めた。
両隣のMちゃん、Y先生ともデジカメ撮影したあと、彼女たちは所用で早々に引き上げた。

幹事係りの在校生たちが、懇親会の隣室に案内するが、なかなか移動しない。
数十名の人々を統制するという仕事は同業者同士でも儘ならないものだ。
ましてや、「テメエのいうことなんかききたくねえんだよ」という方々を相手に束ねるのはどんなに骨が折れるだろう。

廊下で幼年コースの諸先生方に挨拶して、ようやく指導教員のY先生にもご挨拶した。
図書室に戻って、Y先生に改めて『結婚しましたハガキ』を手渡した。
幼年コースの在学生の先生方が、会を進行してくれた。
まずは、紙コップに飲み物を注ぎ、全員で乾杯!

「ゴンタくれですみませんでした。」
「いやいや。」
「すみません。夜は私一人なのにわざわざ来てくださったのですか?」
「一人だってゼミ生だからね。」
「お忙しいのにありがとうございます。夜は私1人でしたが、昼のゼミ生さんは4名でY先生はとても大変だったと聞きました。」
「あ、わかってくれた?」
「はい。私1人でも大変だたったのに、全員で5名だったのですから・・・」
「まあ、留年生が2名いたからね。」
「先生もようやく肩の荷が5人分降りたのですね。」
「ホント、そうだね。」
「ご心配をおかけしましたが、就職も決まりました。」
「そう!いや~よかったね!!」
「はい。今度は障害者の授産施設で正職員として採用していただくことになりました。」
「正職員か。前の専門学校を紹介したのも無駄ではなかったのかな?」
「いえ、とんでもないです。先生が敢えて私の腕試しにと白羽の矢を立ててくださったにもかかわらず、結果として不適任だったのですから・・・
あの転職と転居がなければ、結婚もなかったと思います。」
「新婚生活はどうなの?」
「まだ当分は実家にいて、私の仕事が安定したら新居を探すことになっています。
今回、先生のご指導で子どもと大人というテーマで論文を書かせていただきましたが、
改めて自分は大人なんだろうか?まだ子どものままなんじゃないだろうかとことば1つ1つの字義にも
ますます疑問が募るようになってきました。でも、4月からは田んぼを耕します。」

はてさて、宴もタケナワとなってきたころ、ゆきんこの目標に向かっての行動を起こすときがやってきた。3年前初々しかった入学の頃からすると、殆ど「不安」を感じることも少なくなった、いや、相当面構えも厚くなったオバタリアンかもしれない。
会場の両脇に各コースごとにかたまって会食しているので、自ずとお偉方数名のコーナーは閑散としていた。そこへ、さも無邪気にゆきんこおばさんはこの会場で、いや、恐らく日本の教育界において最強の権威を誇るその方に声をかけた。

「あの、K先生失礼致します。」
「名前が変わりまして、新しく名刺を作りました。お受け取りいただけませんか?」
「どんな活動をしているのですか?」
「はい。2006年に発足した新しい会ですが、当事者の方々も保護者の方々も学校現場で大変お困りのようです。先日もある保護者の方から一人ではお子さんのことを学校へ要望するのはとても勇気がいるそうで、私も同伴で学校を訪問しお話を伺ってきました。幸い、特別支援学級の先生が大変真摯に応じてくださり、貴重な対談ができたと保護者の方にも喜んでいただいてきました。」

学長のK先生も親身に傾聴してくださり、「名刺を介して」朗報を伝えることができた。

さらに、ひときわ盛り上がりっぱなしの教育臨床心理コースの面々が集団撮影を終わった直後、
介入した。
まずは、EMDRの第1人者であるI先生に渡した。
手渡した瞬間のI先生からの確たるリアクションはなかった。
しかし、全く知らないというわけでもないI先生の微妙な反応を私なりに感じ取っていた。
所詮、自分の範疇にない障害には、「プロトコル」という専門語をはじめとする不可解な分厚い専門書監修の第1人者といえども、こんな感じなのかもしれない。
「すみません、臨床コースの修了生さん方ですね?」
「はい。」
私は名刺を次々と差し出し、挨拶してHPへのアクセスとコメントを求めた。
「どうか当事者の方々のために論文を書いてください。支援者を募集しています。」
そこで、どうして質問なり、興味・関心の反応がないのだ!?
君たちは、臨床家なんじゃないのか!?

もちろん、修了式後の懇親会という場所で名刺を配るのは場にそぐわない行動なのかもしれなかった。
でも、私がこの夜の大学院で現役生として振舞える最後の活動だった。
何だか無神経・鈍感そのものに見えるこの人たちが「臨床心理士」だなんて私の偏見だけど全く信じられない。
だって、被虐児だった私はいくつになっても振りかえる度にいつだって高感度でセラピストを品定めしているのだから。

「終わった・・・」という感じ。
それは、子ども時代の無邪気な達成感とか、突っ走った後のランナーの爽快感とは違っている。
結婚や、修士号の取得、新しい出会いと就職
いつになく「おめでとう!」といってくださる方々の笑顔が連呼され、コダマしている。
本当にありがたく、嬉しいことだなと感謝の気持ちでいっぱいだ。
今までの苦しかった泣いてばかりいた日々が嘘のような、一体、皆さんは誰に祝福と賛辞を贈っているのだろうか?
憂いに満ちた過去には、私は人々の幸せを心から喜ぶ人であっただろうか?

でも実は、なぜか素直に喜べない、気がかりなことは表面の慶びごとの背後に渦巻いているからなのかもしれない。
「禍福は糾える縄の如し」

明日の今頃は、6日間日本をエスケープするのだから、そろそろ旅支度を始めよう!















「P






2008/03/17 (Mon) 春は友を呼ぶ!
3月中旬に入り、手袋やマフラーなどの防寒小物を身につける人々は、街から姿を消し、代わりにマスクの花々が桜の開花に先んじて咲き始めた。

昨日16日(日)は、プーおばさんから徐々に働くおばさんモードへ移行すべく午前7時台には起床して、市外の新しい就職先へとバスで出かけた。

ちょうど10日前に個別面接をさせていただいた施設長のY先生を除いて、理事や関係者・新スタッフとの初対面。

理事長のお念仏にも近い、新施設ができた経緯やら職員としての事務連絡が1時間30分も続き、
その後、採用通知書と配属辞令が配布された。


ようやく個々の自己紹介をする番になった。

新スタッフは10名。いずれも障害者福祉界で活躍してきた履歴のある経験豊富な方々だ。
そのうち女性スタッフ4名のバランスから見ても、ゆきんこは中堅どころに位置していた。

ゆきんこの役職は介護支援員。年上の頼もしいスタッフ他2名と共に取り組む新しい職務は、
比較的重い障害区分にアセスメントされた9名の利用者さんを担当する。
仕事は主に農作業になりそうだ。

それぞれの経験を持ち寄りながらも、新しい顔触れが勢揃いし、もう冷たくない春の風が薫る日曜の
正午、一堂は公共の福祉施設を後にして、月末には竣工式と完成を控えた新しい職場へと相乗りで
移動した。

自動車で所用時間15分くらいで、景色は駅付近の賑わいを逸れて「ここは大阪か!?」と思える
田んぼの広がる地区へと入った。
「あ、見えました!」
これから同僚になる若い運転席の男性は声をかけた。

なんと、、、
確かにいい眺めの新幹線も見える田んぼの沿道にまだ工事中の2階建て建築物が現れた。
「うわ~、やさしい色の塗装ですね。」
屋内も各々の部屋はゆったりとした間取りで随所に木目の内壁がぬくもり感とくつろぎ感を与える。
名前も変わり、職場もスタッフも建物も全てが新鮮だ。
そして屋上を吹き抜ける春の風も・・・

しかし、どうやって通勤しようか???
保護者代表のI氏が軽トラで通勤経路を逆行しながら丁寧に説明してくださり、市街地まで送ってくださった。

午後1時。今度は、教育界で活躍中のホープと待ち合わせ。
しかし、Nさんと再会するのは実に半年以上と久しぶり。
以後、何度かメールや電話でやりとりしていたが、実は顔をすっかり忘れていた。
駅の2箇所ある改札口をお互いに往来し、キョロキョロとお互いを探した。
改札口に佇む私の前をすいっと横切ったセミロングの女性に後方から声をかけた。
「あの・・・N先生?」
「あ!声を聞いてわかりました!!」
昨夏出会ったNさんの印象が随分違ったし、私もフォーマルな格好で見分けがつかなかったらしい。

とにかく無事に再会でき、私は定食屋にNさんをつき合わせて、早速自慢気に論文のファイルを見てもらった。
彼女の気さくな天性のキャラなのか、それとも職業柄自然体のほめことばが身についているのか?
「私もワンちゃんを二匹飼っているんですよ~」
と細部の文章構成にまで目を留めてほめちぎってくれた。

初回は、偶然一緒に受講していた夏期講習でほんの別れ際に
「連絡先を教えて欲しい」とただそれだけのコミュニケーションに過ぎなかった。
あの一瞬のアドレス交換がなかったら、きっと昨日の有意義な午後ティーもなかっただろう。

Nさんと向かい合い、今時の教育・福祉論を闘わせるうち、数年前の私と、20代共に汗した同僚とがオーバーラップした。
「Nさんとどうしてこんなに話しやすいのか、思い出しました。20代の時の同僚によく似ているんです。」
「そうですか~。ゆきんこさん、見た目よりもずっと苦労人なんですね。私なんかのほほんと教員試験にも受かって、学校でも大きな問題もなくやってきたし、幸せだな~って思うのですよ。」
「そう思えるのならそれが一番だよ。」
「学校現場のどんなことに問題を見出し、大学院で何を研究するのか、今は何も見えてきません。
でも、ゆきんこさんが子どもたちのことを真剣に考え、予備校に通って大学院に入学し、こうして論文を書き上げたことを、今度は無駄にしないように現場に還元するという使命まで持っていらっしゃるなんてすごいと思います。私には、そういうの全く見えてこない。ただ、漠然と憧れに近い感じで受験しようかなとは思っています。」
「そんなふうにいってもらえると3年間苦心惨憺した甲斐があります。でも、去年の夏期講習でどうして私に声をかけてくださったの?」
「なんとなくピンとくるものがありました。そう、ゆきんこさんって真っ直ぐで自分の意見をはっきりと
言うでしょう?私も自分の本性はゆきんこさんに似ていると感じました。でも、教育現場の私は、
職員同士で折り合いつけたり、本音を言い合えないところもあるのです。」
「福祉にしても、教育にしても、どんな職種だって関係がうまくいってないと結局、自分に素直でなくなり仕事に打ち込めないのじゃないかな?特に教員の場合、子どもにはお見通しなんじゃない?」
「私も養護担任を任され、晴天の霹靂でした。子どもたちに向き合っていいクラス運営ができなかったな~と1年を振り返ります・・・」
「学期末から春休みの節目のこの季節って、子どもだけでなく先生も期待と不安でいっぱいなんだね・・・」

業界は違っても、Nさんは学校現場で、ゆきんこは福祉現場で障害をもつ子どもたちとかかわり、
かけがえのない経験をさせてもらってきた。
そして、教育界の現場にないゆきんこの紆余曲折の半生にまで素朴な好奇心と親しみを感じてくれたNさんは、すっかりゆきんこのお友達になった。

翌日は、同じ市内に住む子育てママのTちゃんを誘って、淀屋橋駅へ向かった。
午後11時過ぎ待ち合わせ場所の書店前には、Oちゃんと彼女を祝福した旧友たちが一堂に再会した。
結婚式以来、遠路遥遥大阪へ戻ってきたOちゃんがリザーヴしてくれた中之島公会堂で、ランチを
楽しもうという企画だ。

「なんだか結婚式の2次会みたいになったね。」
遅れてきたOちゃんの仲良し同僚のFさんを手招きして、6人のステキな女性たちがステキなレストラン「中之島倶楽部」で「大正ロマンランチ」を注文した。
主婦業からエスケープすれば、全く気兼ねもいらないし話題に事欠く暇はない。
Oちゃんの結婚式ではまだ未婚だったゆきんこに、旧友の皆さんは
「どうしてあの時、言わなかったの!?」
という当然の質問を投げかけた。
やっぱり、当人のゆきんこが想像する以上に親友たちの反応を見ると、「電撃入籍」だったらしい?

「隠していたわけじゃなかったけど、Oちゃんの結婚式の翌日に戸籍謄本を取り寄せて、郵送されてきたのがウルウの29日だったんだ。それで、週明けの3月3日に提出したんだよ。だから、この結婚しましたハガキも、市役所で婚姻届提出ジャストのツーショットを撮ったんだ。」

正午を過ぎてにわかにレストランは賑やかになり、我々は席を立って公会堂の内部を一巡探検することにした。Tちゃんによると内装がすっかり美しくなってその分大正の面影は多少薄れたようだった。

それから、Oちゃんの案内で、橋を渡って第2弾のレトロショップへ馳せ参じた。
明治45年築で登録文化財に指定されている英国風伝統菓子舗&紅茶室「北浜レトロ」だ。

8人がけのテーブルにタイムリーに6人で陣取らせてもらった。
結婚前と結婚後では伴侶を何と呼び合っているのかで話題は盛り上がった。
10年前に結婚ラッシュを済ませたグループは、「ないしょ~!!」と伴侶の特別の呼び名は、明かしてくれなかった。

川沿いの窓際からユニオンジャックがはためく向こうに薔薇園も一望できるテーブルで、6人の気分も
「わたしたちにピッタリの喫茶店ね!」
と更に気分が上々になった。
ケーキも紅茶も種類とオリジナル性に富んでいてなかなか品定めできない。
結局、フルーツケーキ派と素朴なチーズケーキ派に分かれたが、出されたケーキで人気があったのは、「たっぷりベリーケーキ」だった。

話題に事欠かない仲間の会話をさすがにディクテーションするのは至難の技だ。
後半は、趣味の話や主婦業の傍らでもできるワークシェアリングへの展望へと広がった。

遅まきながらミセスの仲間入りができたつもりでも、そこには同年代の女性同士の共通項と、それぞれの伴侶や家族状況の相違に基づいた分かち合えないギャップも見え隠れした。
社会構造上、日本の大和撫子の大半は加齢と共に、職場の花として存続することはやっぱり苦しい社会だ。
たまにオシャレして、夕方までエスケープできる奥様族をもう単純に羨んだりはしない。

「ねえねえ、ハズバンドのお友だち紹介してくれない?」
「え?結構オタクタイプだけどいいの?」
Oちゃんが所用で先に去った後、残された友人たち同士でアドレスを交換した。

私たちって幸せな世代かもしれない。
結婚しても、独身でも、たまには息抜きに子育てと違う時空間を楽しめるのも、離婚できるのも、
男性と対等とは言い難いが、日本の経済発展の恩恵を背景に女性の社会的地位がある程度は向上したからなのだ。

「4月から働かなくちゃ。私が扶養者なの。」
「ゆきちゃん、お母さんと同じであなたも奇特な人よね。」
私にとっては、いつも癒し&励まし効果満点のSちゃんの餞のことばを語録しておこう。







2008/03/13 (Thu) 手作りサロン
新妻になって10日目。
婚姻届のビフォー・アフターにどんな変化があったのか?
殆ど全く変化なし。
未だ、実家でパラサイトが続く状況で、且つ就職前ののほほ~んとした春間近の今日この頃のような
穏やかな日常だ。

これが、平々凡々な当たり前のささやかな幸せかなと思う。

ちょうど1年前の劇的な身辺の変化を乗り切ったので、表面的にはまだ多少、余裕があるらしい?
週明け11日には、地域の総合福祉施設で、市の精神保健福祉推進協議会と社会保険協議会が主催する心の保健ゼミナールの講演会に参加した。

午後1時30分の定刻には既に市一円からやってきた民生委員さんたちが会場を埋め尽くし、ざっと数えても130名以上が集まった。
講演のテーマは「社会的ひきこもりについて」で我が町にも珍しくない人々だろう。

もっといえば、私の父などはその元祖といえるのかも?
別名、「廃用症候群」とか、世界共通語としてもそのまま通用する「HIKIKOMORI」は、
いわゆる日本的な風土が社会的な背景にあるとか。
日本社会の特徴として、
平均から外れた人が住みにくい社会
失敗から立ち直りにくい社会であり、社会全体が「ひきこもり」に対して無理解であることが、
本人だけでなく、家族もまきこんでひきこもり現象を助長する。

「ひきこもる」彼らは、植物にたとえるとまるで「サボテン」だと講師は形容した。
棘が刺さってそばに容易に近づけない。
水をやりすぎたり構いすぎると腐ってしまう。
他の草花に比べて成長しているのかいないのかはっきりしない。
いつか花を咲かせるのだろうが、いつ何色の花が咲くのかわからない。

なるほど~・・・
それは、もしかするとPさんの形容にも近いかもしれない???

昨日は午後からPさんとお買い物とお食事を兼ねたデートに出かけた。
Pさんが印刷してくれた「結婚しましたはがき」を受け取った。
とにかく、結婚式をするお金もない。
Pさんの親族の反響は「あ、そう」と淡々としていたらしいが、
ゆきんこサイドに関しては、事後報告せざるを得なかった伯母たちのブーイング解消のために
めんどうくさかったけど「結婚しましたはがき」なるものを用意することになった。

そして、今日の午後1時30分から3時30分まで再び総合福祉施設のボランティアセンターに出かけた。
目的は「手作りサロン」で飲み物を置くコースターを作ること。
参加費用はなんと100円!!
通りすがりに見たポスターのその参加費用の安さが目に飛び込み、2月の終わりごろに申し込んでいたのだ。
既にテーブルを囲んで6名の女性が集まっていた。

「すみません。遅れまして・・・」
「いえ、遅れてないですよ。1分前」
ミセスになっても相変わらずのボケかましで、初対面のミセスたちの輪にすんなり溶け込んだ。

「それでは、自己紹介をどうぞ。」
「ゆきんこです。え~と、10日前に名前が変わってまだ使い慣れていません。
名前が変わって昨日初めて市役所から郵便物が届いたんですが、内容は印鑑登録の抹消でした。」
「あら、おめでとうございます。」
「なんだか遠い昔で忘れたわ。」
「まさか、ウソじゃないでしょうね。」
「いえ、証拠のはがきありますよ。これが終わったら郵便局に出しに行きますから。」
「あら、そうなの。」
「あの、センパイとして夫婦円満の秘訣を教えてください。」
「さあ、私たちに聞いても参考にならないわよ。」
「最初がカンジン!」
「そう、最初のシツケがね。」
「はあ~・・・」

常連らしき3名の主婦の方々とこんな会話から始まって自己紹介の段階ですっかり打ち解けあってしまった。

コースターの作り方は至って簡単で、4~5歳の幼稚園児でもできそうなくらいだった。
講師も親切丁寧ゆっくりと教えてくれた。

①パッチワークのハギレを無地と柄物を2枚組選ぶ。
 紺と、茶色にした。

②無地の布の真ん中に縫い代を2センチ位残し、真ん中に正方形ののり付き型紙をのせてアイロン
 で接着する。

③縫い代のはみ出した4隅の渕の糸をほどく。
 この単純作業が結構、気分転換・ストレス解消になった。

④かわいいミニアップリケやビーズで装飾する。できあがり!!

⑤柄物の布も同様に裏側に型紙をアイロンで接着する。

⑥型紙に沿って半返し縫いをする。

⑦表に返し、最後をカガリ縫いする。

⑧アップリケや4角に装飾の刺繍糸をつけて出来上がり!!

何せ、針仕事など、最も苦手な私だが、自己紹介が効を奏したのか、
両隣の主婦の方々に厚かましくも、
「これでいいですか?」
「次は、どうするのですか?」
と尋ねると、実に甲斐甲斐しく教えてくださった。
「彼女、どのアップリケにする?」
「星にしようかな?」
「彼氏にプレゼントしたらどう?」
「はい、もうすぐ誕生日なんです。」
「あら~、手作りのプレゼントできていいじゃない?」

多分、新婚ほやほやといういいイメージで余計に親切にしてもらえたような気がする。
出来上がると、タイミングよくお茶の時間になった。
「うわ~、シュークリームとコーヒーも出してもらえて、100円ですか!?
そのへんの喫茶店より安いし、お友達もできて、なんだか今日は来てものすごく得しました!!」
「来月もいらっしゃいよ。はい、ここに名前書いて申し込んでおけばいいわ。」
「ありがとうございます。でも、4月から働くかもしれないので、来れるかどうか」

そういうわけで、たった2時間100円というコストでとても楽しい一期一会だった。
もしかすると、大学院よりもずっとお買い得だったかも?

帰りがけに郵便局で「結婚しましたハガキ」を出し、そのついでに懐かしいお宅へと自転車を走らせた。
ちょうど1年前には、この道を生保レディとして数え切れないくらい往来した懐かしい道のりだ。
1年ぶりに春の気配を感じながら通過すると、「よくがんばったな~」と過去の自分が蘇ってくる。

そして、彼これ9年の付き合いになった元家庭教師先のTさん宅のポストに投函した。
そのまま通過しようとしたが、
まてよ・・・
駐車スペースに見覚えのある車が停まっていた。
引き返し、ダメもとでインターホンを押した。
「こんにちは、突然にごめんなさい。ゆきんこです。」
「ゆきんこ先生!?」
インターホン越しの声の主が玄関に現れた。
「お久しぶりです。お元気ですか?」
「ありがとうございます。すみません、すっかり音信普通にしてました。」
「今日は、I先生も来てますよ。」
奥の玄関ドアの向こうからI先生とF君が顔を覗かせた。
「今日は、こっちに来てたのよ。」
「はい。今朝お電話を差し上げてたんです。ご無沙汰していました。」
そして、I先生の傍に佇むF君に声をかけた。
「F君!元気?お勉強がんばってね!」とガッツポーズを示すと、
F君は微かに口元をほころばせた。

「切手代を節約して郵便物を投函に来たのですが、車が停まっていたからインターホン押しちゃった。」
「郵便物?」
「はい。今、入れたのですが見てください。」
「まあ!ご結婚されたのですか!?おめでとうございます。どんな方?」
「写真に写ったこんな人です。よければ、HPも見てください。」
「先生、忙しいのですか?またお会いする機会を持ちたいですね。」
「ありがとうございます。是非、誘ってください!それじゃ、お勉強の邪魔をしました。失礼します。」

ブログを作る以前の独身時代数年通ったT家から母校を横切り、自転車で帰る道のりも何となく懐かしい。
Pさんの妻になったばかりの私。
でも、高校時代の10代の自分も、独身時代の家庭教師だった自分も全部、今の自分の中から溢れてくるのを感じた。
「♪人込みに流されて 変わってゆく私を あなたは時々 遠くで叱って・・・」




2008/03/08 (Sat) 私も結婚してしまった!
「おめでとうございます。」
という一生に一度あるかなきかの特別な祝辞に埋もれていた3月第1週。

2月の最終週は、戸籍謄本の申請と取り寄せ、論文資料作り。

そして、3月1日。
午後1時から5時まで、幼年教育コースの修士論文発表会が無事に終わった。
思いっきり自己満足だけど、シンプル イズ ベスト!の単純明快、起承転結のメリハリのある
発表になった。
だって、自分で言うのもなんだけど、締め切り前も、修正期間もいやというほど、自分で添削に添削を重ね、何回も訂正したのだ。
思い返せば、Y教授の「愛の鞭」でその完成度は自分だけで仕上がったものではないことが、読めば読むほどスルメのように味わうことができた。
ありがたや~。

質問も4者からうけた。
熱血同世代教官のS准教授からは、
「あなたの論文は発展的には後続研究としてワンワンパトロールを射程に入れているようだが、
具体的には『地域の教育力』をどのように展開する意義がありますか?」
「昨年、不登校支援の事例に、イヌを使って再登校を果たした報告がありました。
例えば、飼育動物として学校にイヌを持ち込めるかどうか、校庭解放できるかは、今後の学校社会の受け入れ次第だと思いますが、イヌを使った地域の教育力を発揮できる可能性は、欧米では多くの知見が残されていて日本ではまだまだ研究の余地は大いにあると思います。」

夕刻、学校から最寄のレストランを貸しきって、懇親会と謝恩会
座席の向かいは同じYゼミで、台湾からの留学生ママのGさん。
同じゼミだけど、Gさんは昼間のキャンパスに通学していたので、実質殆ど初対面だった。
「私、今回の論文、日本に文献がなくて英語も訳しました。日本語で書くのは大変だったでしょう?」
「そうですね。ひらがなとカタカナもあるし。」
「ADHDの研究なら、日本は欧米よりもまだ遅れていますが、どうして日本に留学したのですか?」
「アメリカは遠いし、日本が大好きなの。留学すれば日本語も勉強できるでしょう?」
「そうですか。私、日本語教師の勉強もしたのですよ。」
「うわ!そうなんだ。ところで、あなたケッコンしてますか?」
「それが実は、3日にします。」
「え?3日って?」
「あさって。3月3日です。」
「え!?ウソ!ホント?」
「ホントです。」

するとGさんのリアクションに同じテーブルのゼミ生たちがどよめいた。
「センパイ!おめでとうございます!キャ~!ステキ!ステキです~!」
どうしてご本人よりも周りがこんなにオーバーリアクションなんだろう・・・

おばさんになりかかってくると、当事者のせいか、はたまた研究した人間のクールさが身についたのか、周りの反応の方が面白かった。
「論文よりも、結婚の方が大学院に入った大収穫だったんじゃないか?」
「先生、失礼な・・・論文に決まってるじゃないですか!」

2日はどうしていたのか、溜まったメールに目を通していたら1日はあっという間に過ぎた。
Pさんが夜やってきて、独身最後の1日を過ごした。

3日、午前9時から馴染みのご近所さんたちがカメラ持参でドヤドヤとやってきた。
「ちょっと!9時半っていったでしょう!まだ化粧も何にもしてないやん。」
ドサクサに自分でメイクして、2階でドレスに着替えた。
このウェディングドレスは、偶然3週間前に母が知人のKさんからお下がりを譲ってもらった。
もちろん、いただいた時点ではその3週間後に、入籍をする予定など全くなかったのだけど。

そして、Pさんがスーツ姿でやってきた。
居間の奥にヴェールをつけたドレス姿の私にPさんの驚き様といったらなかった。
驚く間もなく、ご近所さんたちが年増の新郎新婦にシャッターを切った。

10時過ぎには、ご近所さんたちは速やかに各々の自宅に戻っていった。
母とPさんと私でK神社にお参りし、車で隣町の市役所へ出かけた。
「ねえ、離婚届もここで提出するんだ。」
「婚姻届出しにきたのに、そんなこと言うなよ。」

まあ、仕方ないです。
バツイチの娘で、Pさんが現れなかったら結婚しなかっただろう・・・
それから、料亭に移動し、Pさんのご両親と合流した。

ここは、1年前に営業所のN所長の勤続25周年祝いをした同じ料亭。
そして、向かいにはPさんと初めて出会ったファミリーレストランがあった。
何せ、将来危ういプー太郎同士の紙切れ婚。
昨年は一つ屋根の下に生活を共にした私たちだけど、しばらくはパラサイトの別居婚が続くため、
否応なく、親の過干渉が続く・・・
昔の鍋釜下げてという時代に比べたら、親の庇護が受けられるなんてある意味幸せだし、
それだけ、親の財力に依存し続けることは、恥なのか?それとも、リストラの弊害を被った1例なのか?

夕方、双方の親と別れて、Pさんの思い出の地にドライブに出かけた。

翌日から本格的にPさんの姓を名乗り出したとはいえ、生まれてこの方使い慣れた旧姓とのギャップにしばらくは違和感を感じるのかもしれない?

それでも、6日には就職面接のため、履歴書は新姓に書き換えて再提出、印鑑も新しく買わなくてはならなかった。
7日、8日と外出先では、大学院仲間に早速Pさんが作ってくれたできたてほやほや名刺も新しい姓で提出した。
新しい名刺のデザインは、右端にコーヒーカップのイラスト入り。
「なんだか、リラックスできそうなイメージでしょ?」

入籍して4日後、Pさんと再会し、喫茶店で当日の写真をもらった。
どの写真も年増の私には「おばさんにも衣装」、我流メイクは「おてもやん」だったけど、
2人で一番気に入ったのは、婚姻届を提出直後、市役所前で撮った1枚だった。
「二人ともなんだか夫婦面だね。」

前途多難な門出にただ嬉しいだけじゃない。
それは、ぐずつく雨が降ったりやんだりの不安定な弥生の空模様に象徴されている気がしている。
私たちの前途も、この雨空の下、ぬかるんでいるのだろう。
雨が降る日があっても、私たちの記念日は日本全国の女の子が幸せを願う桃の節句だ。


プロフィール

ゆきんこ

  • Author:ゆきんこ
  • 2005年8月23日にデビューして、ブログ歴12年目になりました。
    開設当初、障碍児加配保育士を経て、紆余曲折の3年間の夜間大学院の日々を綴ってきました。
    修了後も、失業と再就職を繰り返し、どうにかケセラセラでやってきました。
    出会いと別れの中で次第に専門分野への執着を捨て、遠ざかる日々です。

    独身時代の趣味は、旅行、水彩画、ハイキング、心理学系の読書、リコーダー演奏などでしたが、兼業主婦になってからは家事にまい進、心身とともに衰退しています。
    かなり前に流行った「どうぶつ占い」では「人気者のゾウ」ってことになってます。

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