ゆきんこの引き出し

日常の当たり前の何気ないことの中に 「あっ」というささやかな発見を一緒に 味わってくれませんか? でも、もしかすると、見過ごしている当たり前でない大発見かもしれません。

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これまで転々としてきた職場では、大抵人間関係に悩まされてきた。

残念なことに昨晩の親睦会は、それが最もあからさまに噴出した一幕となった。
障害者授産施設ワーク☆の利用者も支援者もクライマックスの猛暑。
最重度の利用者の全面的な生活介護支援を要する☆班では、利用者全員の健康診断月間も無事修了し、常に眉間に皺を寄せていたO氏も利用者も共に穏やかに乗り切ることができていた。

「やったぞ~!!今週だけで売り上げが1万円を超えた!!」
「初めて収穫した野菜って本当にみずみずしくて新鮮ですね。種からできたなんてすごい!」
梅雨明け以降、体調を崩しやすい利用者さんを畑へ連れ出すことができず、室内で暇をもてあまし気味ではあったが、畑の作物が次々と収穫され、即売して我が班では盆と正月が一度に来たような
歓喜を述べ合っていた。

「でも、いつまでもいい状態は続かないぞ。Nだって今週調子よかったけど、いつだって最悪のことをかんがえておかなくちゃ。」
そういって
「よ~し!ゆきんこ収穫して来い!!」
とO氏は利用者さんとクーラーの聴いた室内でお留守番。
容赦なく炎天下の畑へたった一人で収穫へ行くことを命じる。

あんまり私の指示じず、困った行動やうなり声をあげる体格の立派な利用者さんを束でみるより
炎天下の単独行動の方がましだろうとたかをくくった。

しかし、照りつける太陽は私を熱中症寸前へと誘う。
30分以上もすれば、後頭部が痛くなりクラクラと気分が悪くなってきた。

「おう、どうだ?オレの気持ちがわかっただろう?」
「はい。命がけの収穫でした。」

ブツブツ言いつつも、根は気のいいOさんと収穫物を袋に詰めて、週末には松葉牡丹の花も初出荷した。
しかし、事件は楽しいはずだった宴の席で起こった。

身辺自立の課題を残したまま大人になった利用者の皆さん方から片時も目が離せないOさんと私は、
他グループの就労支援者の業務から殆ど隔離され、いつしか険悪になり敵対するようにまでなっていた。つまり、☆班は端的にいって、石潰しのロクデナシであり、
「支援者が利用者に福祉を受けているんやな~」とイヤミを言われ続けてきたのだ。

おまけに、30代半ばの支援員が1名しかいない職員の平均年齢は、50代後半~60代で第1線から退いていながらも職能技術は健在というベテラン支援員で構成されていることが、実は厄介なのだ。
給料や処遇は低められていても、20年~30年のキャリアとプライド、そして障害者福祉という独特の
変コツなキャラクターが、O氏とゆきんこのやることなすことを全て槍玉にあげていた。

その最古参のベテラン支援員のE氏とTさんが円卓の宴を殆ど毒舌で埋め尽くした。
「ちょっとあんたたち、しゃべんなさいよ!」
「あんたがしゃべりすぎやねん!」
施設長はじめ、他の支援員は大人しく二人の大声での言いたい放題の掛け合いをBGMに並んだご馳走に箸をつけていた。
宴のTさんの言動を傍聴していると、障害のある子どもたちのために全身全霊でかかわってきたことは真実だろうと思えたし、基本的にはボランティア精神のある善人だと思う。
ただ、苦手で敬遠してきたのは利用者さんにいつも厳しい口調の大きな訛声で否定文を浴びせていることだった。

一応、コミュニケーションのことで2つの論文を書いた(誰も評価しない)実績のあるゆきんことしては、
不快感極まりない無慈悲な言語機能の嵐と手前味噌な支援はとっても独善的なのだ。
それに、いくら嫌いでも、私には挨拶もしないし完全無視の状態が続き、たまにことばを交わしても
「ゴミ捨ててないわよ!」とか、
「クーラーポット出して」とか、
実につっけんどんな指示しか受けていなかった。

「もうしんどいねん。あついねん。夏休みするわ!」
「ダメです。利用者さんたちはどうなるんですか!」
「私は子ども(利用者)たちにいつだって情熱を注いでるよ。合わない子だっているけど、私の情熱で
どんどんよくなってきた。」
Tさんはこれまでの支援(旧養護)学校での支援員としての実績を自負して、豪語した。

「でも、許さへん。私は話したくない人とは最初から話ししない。あんたたち、一体、どんな支援してきたか説明しなさい!!あんなどこにでも咲くような『爪きり草』売りつけるなんて今までどんな畑作りしてきた!?」
普段は遊んでいるようにしか見えない☆班が売り出した途端、悪徳商法でもやっているんじゃないかというバッシングだ。
作業室では饒舌なO氏が、今回の宴ではずっと苦虫を潰した顔で大人しくチビチビと飲みながら、Tさんの独壇場を聞いていたが、ついにキレタ瞬間だった。

「あんた!いい加減にしろよ!指差して最初から俺が嫌いだとかなんとかって失礼じゃないか!
俺は毎日一人で耕してきたんだ!!」

「あたしだって耕したわよ!あんたたちは畑のことなんて全然何も知らないことはわかってんのよ!」

それまで時折、笑い声も飛び交っていた円卓が、一気に険悪になった。
「私は酔ってない。ゆきんこさんだって、私のこと嫌いでしょう!」
とばっちりがやってきた。
「いえ、私はきらいっていうよりこわいと思ってます・・・」
私は困り笑顔で返した。

「もう辞めてやる!!」
Tさんは悔しさと激情のあまり泣き出した。
60代のおばさんが取り乱すと本当に怖い・・・
「まあまあ、おかあさん落ち着いて・・・」
「ここは楽しいお酒の席よ。仕事の話し合いは後日にしましょう。」
「施設にとっては皆さん誰もがかけがえのない存在です。」
常務理事やら、大学病院の主任を履歴した看護師さんまでもが、その場をなんとか穏便に運ぼうと
したが、施設開所の初日からギスギスした関係がなんと全職員一致の親睦会で一気に噴出したのだ。

既に、3ヶ月の試用期間満了後、7月の常務理事との本採用面接で、
私は正直に支援員同士の人間関係に悩んでいることを伝えたのだが、
「どこにだってあるからさ」と理事はその時大事とはとらなかった。
しかし、年配でパートのTさんのわがまま暴言振りを諭してくれるのは、もう常務理事しかいないのだ。
それくらい、職員は結束が希薄で、ジコ中な集団に成り果てていた。

「ごめんなさい。7月に就職されたばかりなのに職員の人間関係が曝されてしまいました。」
「それじゃあ、私たちはこれで・・・」
苦笑いして嘱託調理員さんたちが退席した。
「私も、バスの本数が少なくなるのでこれで・・・」
売られた喧嘩はさらりと交わし、早々に立ち去って火の粉を浴びないことが賢明と判断した。
玄関でタバコをふかし、頭に血が上っているO氏に一声かけた。
「Oさん・・・月曜日きてくださいね。」
「さあ、わからんね!」
「じゃ、失礼します。」
とにかく、この後どうなるのか、立ち尽くしているOさんの反撃を見届けるのがこわくて逃避防衛本能だけが実行された。

たった4ヶ月のつきあいにしても月~金まで6時間密室のような擬似家族的集団で諸々の仕事上話をしては、Oさんの「目には目を」という報復精神を知り尽くしていた私としては、最愛最悪の事態しか想像できなかったのだ。

大人になっても大人になりきれない大人同士の喧騒
それを自覚せずに、否定文やジコ中な暴言を吐く大人
そこで自省したり、自己嫌悪できるならまだ自己成長もある。

もともとお酒もタバコも忌避してきた私にとっては、反対に嗜癖して宴を台なしにして平気な年配者たちに辟易していた。

月曜日がくるのがこわいけど、休日だけは自分だけの時間を満喫したい。
ヒトの振り見て我が振りなおせ
ケセラセラでいこう。
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結婚して4ヶ月が経過した。
うだるような猛暑の3連休の中日の昨日午後
1時から4時すぎまで、P家の親族会に出席した。

出席した親族はP家の人々が9名、ゆきんこの親族が5名
Pさんのご両親の主催で、親族同士の親睦を深めようという目的で行われた。
挙行にあたり、殊にP家では過去から現在に至る諸々の清算の意味合いも込められた親族会となったようだ。

ゆきんこの親族も同様で、2000年以降喪服づきあいが主で、従姉妹のKさんが2児の母になったことくらいだろうか。
激減した私の親族の参加者は、母の長姉、母の次姉の娘婿(義理の従兄弟)Yさん、母の妹、母、私


地元の商工会議所の道路を隔てた向かいの料亭に定刻よりも早めにロビーに集まった初対面のPさんの弟夫婦と叔父さん叔母さんにまずは一礼してご挨拶した。
「はじめまして。ゆきんこです。」
「ゆきんこさん、事前に打ち合わせしておこう。」
「はい、お義父さん」
意気揚々と張り切っているPさんの御父さんが(一応)新婦の私に耳打ちした。

私は母の姉妹が集まるソファに連絡事項を伝えた。
「Yさんをどうやって紹介したらいいのかな?」
「そのままでいいですよ。」
「2番目の姉の娘の婿」
「私が6歳のとき、結婚式でブーケを渡しました。」
「そうそう。」
「随分長いおつきあいですね。まさか、私が結婚するなんて思わなかったでしょう。」
「いや、いつするのかな~と思っていたよ。なかなかいい男じゃないか!」
「でしょ?前に青い英語の原著を紹介したこと覚えていますか?あの本を日本語版にするために彼が貢献したのです。新刊して今日でちょうど1周年なんです。」
「ああ、あの英語の本を彼がね。で、今どこに住んでるの?」
「双方の実家で週末婚ですよ。といっても、土曜日の午後から数時間程度。
新しい苗字で名刺も作ったので是非、アクセスしてください。」
元公立中学校校長で、海外勤務経験もあるYさんも名刺を私にくださった。
「今は、ここでヤクザな仕事をしています。」
その肩書きは中高一環の私学のリクルーターだ。

教育関係者の何気ないことばは危険だ。
けれども、母も私も縁続きのYさんの教育界における実績が、Pさんの前途を後押しするのに強力な
助っ人になりそうだと予感していた。

しかし、そもそも人付き合いの苦手なPさん
こういうかしこまった礼服つきあいは一番苦手で逃げ出したいシチュエーションと想像された。
親族といったって初対面では打ち解けるのに今すぐってわけにはいかない。

「去年、一緒に暮らし始めたときには、Pさんは六甲山かどこかの山に登って二人だけで結婚式をするのが理想だと言っていたのですが、結局はそうはならなくて・・・」

両親族ごとに「祝い鶴」というお菓子と抹茶をいただいて、4階の予約室へ移動した。
縦長のテーブルに向かい合い、年功序列で親族が向かい合って着席し、末尾はPさんのご両親という
位置に勢ぞろいした。

双方の親族を紹介し、Pさんがご挨拶
「先輩である皆さんに教えていただき、温かい家庭を築きます。」

多くの新郎新婦が親族の前で、当たり前に宣誓するのだが、
私の場合、自分自身が主人公とか、慶びごとの席にいることにものすごく違和感があった。
「温かい家庭ってなんだろう???」

私の親族は存命者よりも他界した人々の方が多くなってしまった。
その死に様には大なり小なりの憂いが残っていたし、生き残った親族は私とPさんの行く末を案じて
いることがわかっていた。
その最大の理由は、Pさんの現在の境遇が両親が結婚した当時の状況に類似していることにあった。
特に母より10歳年上の大正生まれの長姉のSさんは、15歳にして妹たちの母親代わりを務めてきた。

Sさん自身の結婚も決して順風満帆ではなく、夫が失業中には生活に困ったらしい。
また、母は父と結婚したくなかったのに、母親代わりのSさんが父との結婚を推したので、
結果、母と私に労苦をかけたことに罪悪感をもっているようだった。
結婚相手次第で女性の後半生が左右されることをゆきんこの叔母たちは明言しないが、心配してくれているのだ。

「ゆきんこさん、今はどんなお仕事ですか?」
向かいに面して座ったPさんの2人の弟のお嫁さん同士で談話した。
「障害者の方々と一緒に働き、支援する施設です。私の担当は重度の方で視覚障害もあって結構大変です。それ以前は障害児さんの保育士でした。」
「保育士さんの方があっているんじゃありませんか?」
「その方がキャリアは長かったからね。でも、保育士の方が楽かといえばそうでもないですよ。
私は4歳児クラスが多かったけど、けんかや物の取り合いが多くて仲裁するのはとてもストレスフルだった。おまけに子どものけんかに親が出るとますますややこしくなってその方がしんどかったですね。」

P家にとっては、間もなく3歳になる姪御さんのYちゃんが唯一の子どもで、彼女に大人たちのの視線が一挙に集中攻撃だった。
最近の少子化のなかで育った子どもたちは否応なく大人の溺愛や慰めの対象になるらしいし、
初対面の嫁同士の場合、話草にはYちゃんがもってこいだったので親睦の第1歩にはなったようだ。

途中、お義父さん詩吟やお義弟さんの「千の風になって」が披露されたのだけど、
それにもかかわらず、一見和やかな親族会が私にとっては幻のように感じられた。

夕方、ゆきんこの親族は早々に立ち去りそれぞれの居宅に帰っていったが、
Pさんの家族と、ゆきんこ、母がロビーでしばらく立ち往生となった。
Pさんの弟さんが疲れてダウンしてしまったのだ。

「ゆきんこさん、どうする?今から実家に来る?」
「・・・いいよ。私はもう帰るね」
「じゃあ、家まで車で送ろうか?」
「今から母と買い物に行くの。それからバスで帰るから。ありがとう。」

誰のせいでもないけど、P家の団欒に加わるにはその瞬間に躊躇いがあった。
母と私だけの寂しい母子家庭で育ったのだから、
やっぱり自然、私はPさんとPさんの一族と過ごすよりも母を独りにしたくなくて、帰ることにした。

子ども時代の原風景が蘇った。
両親の離婚後も父の姓を名乗り続けてきた私に、両親族に対する帰属感を持てずにいた。
私が親族の一員として認められていたと自覚したのは、Pさんと結婚したからだ。

親族間のみにくいあひるの子
子ども時代の原風景は、結婚してもしなくても痛くも痒くもない状態を維持しておきたいという
心の防衛線を張っていた。

そして、明らかにPさんの生家と私の生家や家族感覚のズレを感じていた。
そのズレというのは、私の場合、Pさん自身と結婚したと思っていたのだか、
Pさんの家族の一員になったという自覚がまるでなかったことにようやく気づいたからだった。
Pさんも私もパラサイトシングルと何も変わらない暮らし振りだ。
誰もがPさんと私の奇妙な結婚にノーコメントだった。

きっとPさん一家は、名ばかりの新妻などいなくても元の家庭の温かさや明るさを取り戻していけるだろう。



「ワシとあんたの仲じゃから・・・」
という接頭語で、ゆきんこのヘタクソな仕事ぶりを温かく見守ってくれる昭和7年生まれの年配者のA氏と、週末の送迎者の中でぼやいてみた。

独身時代は、こういう台詞はセクハラだと目くじらを立てていたが、ヘタレモードの時にはどうでもいいですよ~と投げやりな七夕も去った7月第2週。

「結局、どんな仕事も楽じゃないが、人様のめんどうをみる、それも障害のある人なんていうのは、
まあ~、余程善良な人か、バカしかできんよ。」
その自然体のおじさんの口調が、やれやれと利用者さんを送り届けた私をフッと笑わせてくれる。

「Aさんは運転士のお仕事をこれまで続けてきてどうでしたか?」
「ん?わしの場合は、転職のときには自分が潮時だと思ったときに、ちょうどうまい具合に他から誘いがあったんだよ。そのときの仕事が辛くても転職先を探すことで乗り切れたんじゃな。」
「ふ~ん・・・そうですかぁ」
「どうしたんじゃ?なんか、しおらしい返事じゃな。辞めるのか?」
「いえ、辞めたりしませんよ。」

試用期間3ヶ月が経過して、職員の個人本採用契約を受ける時がきた。
初番が、私で利用者さんたちを送迎者で見送って間もなくの午後4時過ぎ
常務理事のM氏と相談室で面接した。
約30分間、殆どM氏の一方的な発話で私は無条件に「はい」と応答するだけの契約だった。
つまりは、「新設の授産施設は3ヶ月目にして赤字経営状態なので、ない袖は触れない。支援計画内容を見直し、しっかり儲けよ。」との仰せである。

しかし、カンタンにハイと返事できないのが、重度重複障害者の吹き溜まりであるわが☆班。
障害者更正施設で長年貢献してきた熟練支援員O氏への期待と希望は消失寸前である。

利用者一人一人が問題行動を噴出させるか、あるいはトイレを何往復するだけで1週間がヘトヘトになる。
それでも、☆班だけの自己満足かもしれなくても、利用者のみなさん方は、O氏とゆきんこの支援に
一言も文句を言わず、個々には改善振りを見せてくれ、保護者との連絡ノートにも朗報を伝えた。

O氏がたった一人で100坪近くの農園の畝上げから日々の畑の手入れを大型農耕機具もなく、正に
戦後じゃないの?という鋤・桑を人力で耕す。
農耕具や種・肥料購入の請求をすれば、事務方に「経費の無駄遣いだ」とお小言を言われるので、
自分の給料から材料を購入する。
耕している間に、誰かが逃走しては連れ戻す、もしくは逃走しないように見守る、その30分以内に誰かが失禁する、トイレ誘導するという有様だ。

トイレ誘導といっても、車椅子の身体障害者2名を含む☆班は、畑から施設内への移動に少なくとも
3分、靴の履き替えに3分、最後にトイレ着脱し用を足すのに10分・・・
これを4人分やっているわけだ。

昨日も、登所してすぐ女性の利用者をトイレ誘導したところ、15分以上もかかってしまった。
その間、残りの5名の利用者を支援者が待機させなければならず、畑の収穫作業がオジャンとなってしまった。
「判断ミスだぞ!!」
「すみませんでした」

6名のうち、1名は重度の自閉症でどうやら水中毒症状も呈している。
うだるような暑さ・高湿度ともなれば、彼はアトピーもひどくなるのでイライラ感も増幅し、それに伴って、渇水と排尿を10秒単位で繰り返す。
ついでにトイレで水遊びやマーキングで気分転換するからトイレはアンモニアの臭気を帯びて水浸し。

支援員よりも大柄の彼が、昨日の午後も「何気に」ゴンゴンと頭を叩いたり、壁に頭を打ち付けたり、手噛みを始めたら、自ずと狂気めいた目つきに変わった。
他害を懸念して施設長や看護師も駆けつけて、彼を宥めたり、精神安定剤を服用させるなとの対策をとることになった。

でも、もう遅かった。
「もう俺はきれた」
「俺の知ったこっちゃない!」と主担のO氏は言い放った。
その日の個人面接でO氏は自身の力量の限界を理由に、常務理事に正式採用の契約を断った。

たったの3ヶ月でO氏の勤労意欲を台無しにしてしまったのには、組織力の稚拙さにあると考えている。
赤字スタートの新設の授産施設内で、他グループの自立部門や就労支援部門の支援員が実にシニカルなのだ。
喩えていうなら、他のグループはインドなどの新興のアジア諸国だが、☆班といえばアフリカさながら
という様相。

施設長には「掃除して何か作業考えて」といい置かれてあわてふためく始末。
午前中には、地域の支援学校から教諭と保護者が見学にくるから、「やってます、がんばってます」と
いう格好を見せないといけないのに・・・
「すみません。今、畑から帰ってきてクールダウンしてます。」
机の上には何もなく、もの言えぬ利用者さんたちがじっと着席しているところをお目にかけただけだった。

支援者は、この3ヶ月かけてようやく利用者さんたちを静かに一定の時間着席しているようにトレーニングにはこぎつけた。

しかし、それだけじゃ「なにやっとんねん」という冷淡な評価しかしないのだ。
この評価を下すのは他でもない他グループの支援員だ。

油断すれば支援者が目を離した隙を狙って、笑いながら利用者が別の作業室へ走っていく。
別の利用者がトイレに駆け込み、下半身裸で佇んでいる。
やることなすことが全て職員間でのバッシングの対象。
弱り目に祟り目でO氏はGW明けから腰痛や不定愁訴をこぼすようになり、とうとう辞職の声明となった。

「質はともかく、施設はとりあえず回っていくことは回っていくさ。」
「Oさん、どうするんですか?」
「きかんといてくれ!俺はせっかくやりたかった仕事に戻れると思ってここへ来たんだ。
それなのに、みんなバラバラじゃないか!」
「障害者の施設なのにどうしてでしょう?」
「障害者畑で生きていく術や手の内を見せるわけないだろう?そうやって、残ったものが淘汰されていく世界なんだ。だから俺は、自分の限界を感じて辞めることが悔しいんだよ。」

確かに、職員間のコミュニケーションは支援者と利用者間に比べて希薄だ。
定時になれば、さっさと帰ってしまう。
そのひとつには、授産施設といえども営利目的事業があり障害者を抱えて遂行することだけでも、
職員がクタクタになっていて親睦するだけの余裕がないことにある。

施設長も、わずか3ヶ月のうちに職員間の仲の悪さがひいては、利用者の方々に影響して、悪循環に陥っていくことを懸念していた。

きゅうりや茄子・プチトマトも汗だくになってO氏が収穫してくれた。
でも、買ってくれる第3者がなければ、自分たちの給料で賄わなくてはならない。

O氏の辞職宣言に、明日の施設運営に一抹の不安を覚えた。
O氏を追い込んだ古株の職員にも少しは、言動に責任を感じて欲しい。
どうして、目も見えない、歩けない、ことばも話せない、生きていくだけでやっとの人に営利目的のどんな行動ができるのでしょうか?
そのための支援内容とは、何なのでしょうか?
私には何のアイデアも浮かんできません。
誰も教えてくれません。

まるで、薄氷を踏み外して餓死していくホッキョクグマや両親を亡くして途方にくれる孤児と似ていませんか?
午後6時。
淀屋橋駅から徒歩で御堂筋を梅田へと移動した。
アテネオリンピックが開催された4年前
S保育所で4月から海の日まで過ごした日々は、大阪市庁舎の前を通過したこの通学路とも重なっている。
当時、担当していた障害児のS君への個別支援をよりよいものにしたいと発起して、臨床心理士を目指し、大学院予備校へ10ヶ月間通学した。
おかげで、その年の11月無事、H大学大学院の幼年教育コースに合格を果たした。

無事にといっても、昼間は保育、夜週3回の予備校、土日は心理学のレポートという10ヶ月間はやっぱり楽ではなかった。
思い返せば、大学院在学中よりも予備校受験生おばさん時代の方が余程、苦学した気がする。

まずもって、30代半ばのハイミスが現役の20代の若者に交じって英語も心理学も基礎からやり直し。「もう、自分は結婚しないだろう。だったら、なけなしの自己投資でもう一度大好きな心理学を学びなおしたい。」
当時から今まで変わらぬリストラに次ぐ、リストラ。
福祉教育切捨て市政の下、転職の度に泣いてばかりいた使い捨てアルバイトおばさん生活にほとほと嫌気がさした。
自分なりに捌け口を求めての自己救済の突破口と、ABA(応用行動分析学)に対する未知への好奇心が、自分を支えていた。
淀屋橋から梅田まで運動がてらに徒歩で気分転換しながら交通費を節約した。
脇目も振らずに梅田の繁華街の雑踏を駆け抜けた。

・・・という苦労話はここまでにして
お初天神の社で一礼した。
「ん?ゆきんこと同い年の男性は、来年、本厄やんか」

旭屋書店に寄り道。
「図解 なりたい自分になれるNLPコミュニケーション練習帳」
(著者 木村佳世子 2008年5月28日初版 秀和システム ¥1000) を衝動買いしてしまった。

そこから、曽根崎警察署の裏側を通過して着いたところは、梅田花月があるビル内の居酒屋。
「久しぶり~」
午後7時
にこやかに、大学院の幼年コースの仲間が集まった。

日ごろの鬱憤が溜まっているのか、話したいことが山ほどあるのか、
修了生も在学生も、それぞれの分野の話であっという間の2時間だった。
勝ち組の幼年教育現職正職員の先生は、相変わらず悠々自適振り。
それでも、大学院経営事情に詳しいK先生からは、学長をめぐる学閥抗争や、
通学に不便過ぎる田舎の大学が国費を打ち切られ、近々、取り潰しの対象になっていることをきいた。
恩師の諸先生方は、相変わらずの忙殺スケジュールに勤しんでいらっしゃる様子で、他大学へ退官する先生の話も出た。

修士号を取ったからといって、
猫も杓子も修士の時代。
幼児の絵画・造詣教育とアドバイザーを兼任する3年生のN氏は、先日論文の中間報告会で
後輩にあたる幼稚園のベテラン管理職から槍玉になったらしい。
なかなか、「主観的」であることが払拭できないと、一人よがりの発表ではたちまちに
「それは、あなたの偏見、思い込みでしょう?」という反論を受けてしまっては、
学会から正当に評価される論文とは言えない。

似たような研究報告だけでは、研究者も生き残っていけない時代だ。
「修士号だけではどうにもならないですよね。」
「そうなんだよね~。」
「Mさん、今はどうしているんですか?」
「とりあえず、実績作りだよ。今、4社からリレー投稿の依頼を受けているんだ。大桃美代子とか芸能人の連載記事なんだけど。」
「すごい!有名人じゃないですか!」
「でも、単発の投稿じゃ仕方ない。無名のままで消えてしまう。今は、2つの大学で非常勤講師とアルバイトで食いつないでいるけど、子どもたちに家族サービスもできなくて我慢させているよ。」
「じゃあ、将来的には、博士課程ですか?」
「もちろん、50歳になるまでに、東京大学をね。」
「ええ!東大の大学院!?」
「だって、僕の研究分野は東大以外にないんだもの。」
「そうですか。私のイヌの研究だって、実は海外と東大しかなかったんですよ。
 先行研究には苦労したけど、お陰で、発表のときにはブーイングもなくて済んだのかも。」
誰も関心払ってないオリジナルな研究って突っ込みようがありません。
学校や幼稚園・施設でイヌを飼おうなんている発想は、管理職にはありませんからね。」

ここでも、結婚してから新しく作った名刺を差し出してみたが、メンバーは殆ど無反応に近かった。
というよりも、自分のはまっていることをいかにアピールするかが、大学院というところだから、
海外の保育事情、太鼓での表現活動、親子スポーツ健康学などなど、一口に幼児教育といっても、
所詮、研究分野も話題もちぐはぐだ。
共通点は研究することと自身の懐のバランスとに苦闘していることだった。

それでも、集まった7人の同士全員に名刺を配ると正面に座ったNさんが質問してくれた。
「最近、私がかかわったお子さんで、どうも場面かんもくらしいという情報を得たよ。
幼稚園から小学校へ入学したんだけど、症状が改善せずに御母さんが心配しているらしい。
今は、どんな活動をしているの?」
「専門家はいないですから、当事者と保護者中心の自助活動です。
主には、HPの掲示板上での情報交換です。最近では、遠隔地でのオフ会も開いています。」
「へえ~、すごいね。もう一枚名刺もらってもいいかな?お母さんに紹介するよ。」
「一枚といわず、何枚でも!」
「いや、一枚で十分・・・」

久しぶりにアルコールカクテルを飲んだら、もう2次会へ行く気力はなかった。
仕事で遅れて参加したNさんは、明日も早朝から仕事だというのに、やっぱりタフだ。
独身組5名が連れ立ってお茶しにいくとお初天神通りの入り口で別れた。
朝から晩まで異動の多い、それぞれの半生を仕事に滅私奉公してきた女性たちは逞しい。
だけど、気がつけば働き盛りを子育て支援に尽くした少子化の張本人だったりするところがなんだか皮肉だ。

これから博士を目指すというTさんとJR大阪駅へ向かった。
「研究の道に入った以上、有名にならなくちゃ、生業にならないですよね。
私も根がミーハーだから、有名になるって大変だし、自分の人生を賭けてやり遂げられるって誰にもできないすごいことだと思います。
でも、そのために誰かを犠牲にしてまで有名になったのなら、私は単純に有名であることでその人が
尊敬に値する人なのかどうか、論文を書くことで、手前味噌な結論で説得力に欠ける論文は評されないことがわかって、反対にシビアに考えるようになりました。
自分だけのの栄誉欲のために家族や身近な人に犠牲を強いて掴んだ栄光なら、最後にはその恩恵を返すべきではないですか?
そうまでして、掴む栄誉なら無名でも地に足つけてがんばっている人の方が余程、尊敬できる人のように思います。
結局、修士までとってもどうにもならない高学歴プアカップルだからなんですけどね。」

なんだか私、お説教くさいオバタリアンになったみたい!?

午後4時半
池添先生の講演が終わるや否や、私は躊躇う気持ちを押して名刺を一枚取り出した。

くるりと会場を振り返ると、見覚えのある女性の姿が目に留まった。
「こんにちは。S保育所の先生ですね?」
「あ~!?」
「ゆきんこです。アルバイトでS保育所に勤務させてもらっていました。」
「久しぶりですね。お元気ですか?」
「はい。先生、今もS保育所に?」
名前は度忘れしてしまった保育士さんは、4年前当時、隣のクラスの担任だった。

「(ゆきんこ)先生はどうしていますか?」
「障害者授産施設に就職しました。それから実は、こんなことをしています。」
私は、池添先生渡したかったはずの名刺を差し出した。
「すごい~!活躍しているんですね!」
「苗字も変わって結婚しました。」
「羨ましい~」
「ところで、あの当時、先生が担当していたクラスにかんもくのお子さんいらっしゃいましたね。」
「ああ、Aちゃんのことかな?」
「先生、もし関心があれば、HPをご覧になってください。PCはどうですか?」
「あ~、ごめんなさい。私、PCは苦手で殆ど使わないの。」

入り口で保育士さんと別れて、池添先生の姿を探したが見つからなかった。


次に向かったところは、同じフロア内の福祉図書コーナー
過去10年は失業の度に、出没していた癒し空間だったけど、
この4月から受付のスタッフが入れ替わったらしい。
お馴染みだった視覚障害の女性と聴覚障害の女性も異動になったようだ。

そこで、借りた本は、
『発達と障害を考える本 ふしぎだね!?言語障害のおともだち』
牧野泰美 監修 阿部厚人 編 ミネルヴァ書房(2007)

受付で貸し出しカード見つからず、もたついてしまった。
新顔の柔和な女性スタッフが、やさしい口調で言ってくれた。
「新しいのを再発行しましょうか?」
「そうですね。名前も変わりましたので・・・」
「住所・氏名を記載したものを見せてもらえますか?」
「じゃあ、名刺を・・・」
私は女性スタッフと車椅子の男性スタッフに渡した。
「かんもくって知ってますか?」
「いいえ。」
「では、折角ですからこの機会にもらってください。障害のある方々かかわる人にも、殆ど知られていません。HPもご覧になってみてください。」

私は借りた本の監修者と編者のプロフィールに目を留めた。
「牧野先生は特殊教育学会に所属しているんだ・・・」

午後5時30分。
H駅に向かい、タイムリーに到着した特急に乗り込んだ。
こうして、K養護学校、N養護学校、市内のK小学校特別支援学級の各学校教職員、保護者、当事者から3年前に廃校になったHN高校跡地に養護学校の建設を求める実行委員会の報告が相次いだ。

なかでも、インパクト大きかったのは、小学4年生のY君(アスペルガーらしい?)が、直々に橋下府知事に訴えた請願書だ。
「養護学校を作ってくれないと困ります。
アメリカに追いつけません。
日本は遅れています。
大阪はお金がないので、集めたらいい。
お金を出さない人もいる。
だから、募金箱を全国に置かなくちゃ。」

40万人都市のふるさとにひとつも養護学校がない。
因みに鳥取市は60万人都市で、市内に11校もあると報告があって場内はどよめいた。

休憩時間を挟んで、第2部記念講演「ちょっと気になる子どもと子育て」
-笑顔が輝く子どもが学べる場のために-
講師は、池添 素先生(京都「らく相談室」)

池添先生は、京都の子ども相談では、非常に名高い方であることは知っていた。
この10年バーンアウトしながら、毎年職場を転々としてジリ貧生活を凌いできた。
もう5年前に遡るけど、越境して1時間以上かけて京都の療育施設にも勤務していたとき、
担当したアスペルガーと診断された男の子の保護者が、「らく相談室」で個別相談を受けていた。

池添先生は、相談員の傍ら、仏教大学や立命館大学で非常勤講師としても教壇に立ち、半生を障害児の保護者の子育て相談に応じてきた御方である。

専門家の講演内容は、聞きつくしてきたつもりだから、重複している内容は割愛して、池添先生ならではのメッセージを語録しておく。
○障害とは・・・本当は自分の力で解決したいけれど、自分の力だけでは解決できない問題
 自分でもわかりにくい発達の課題を残しながら育っていく

保護者の立場から代弁する内容だから、時にはこんな発言も。。。

「う~ん、ここは学校の先生や保育士さんたちもいるからいいにくいんやけど、、、
熱心な教師・保育士ほど『今しておかないといけない』と親を脅迫して追い詰める。
子どもが先生の期待に応えようとどんなに無理してがんばっていることか、
その反動で家ではクタクタになってしまっている。死に物狂いで、朝から支度して通学してくる。
どんなにしんどくても、どんなに遠くても学校が好きだから。」

「震災後に、宝塚の通園施設を訪問したことがあった。
当時は、避難所として使ったが、幸いハードとしての通園施設があったから
被災者はそこで生活でき、施設も再開することができた。」

「私たちは22世紀は生きられない。
子孫に託す未来の地球はどうなっているか、大人の責任を感じている。」

ゆきんこのふるさとは、実は七夕発祥地として有名である。
私は、未だ生年月日が住民票に記載されたままのネイティブ市民を維持している。

天皇家の縁の地名も数多く、漢字伝来の町、菊の町としても名高い。
しかし、昨今は不名誉なことで有名になってきた。
昨夏は、10年市政を治めた市長が逮捕されたし、先月は殺人事件が起きた。

子ども時代は、東洋一の住宅群が立ち並び、生誕以来三越デパートも駅前にあった。
堤防からほど近い小学校には、障害児学級もあって休み時間にじっと
「自分とはなんだか違う子どもたち」の行動をなんとなく眺めていた記憶が蘇る。

通学路に寄り道してままごとに興じた蓮華の花咲く田んぼ道は第2次ベビーブーム世代に対応し、新設高校に姿を変えた。
新設されてから20年経過した今、同じ市内の別の公立高校は少子化のために廃校になった。

その廃校になったHN高校が、センセーショナルを巻き起こしているというのだ。
わがふるさとの不名誉は、私の子ども時代には先駆的と評されたわが町独特のノーマライゼーションが仇となって浮上した問題だ。

わが町は、40万人都市であるにもかかわらず、周辺の人口が少ない都市に当然に設置されているはずの養護学校がない。
障害児を抱える保護者たちが、この20年間養護学校新設を要請するためにマスコミにも働きかけ、署名運動を行ってきたにもかかわらず、行政が首を縦に振ることなく放置されてきた積年の問題だった。

明日から始まる洞爺湖サミットと七夕と合わせてリンクしてくる問題かもしれない。
つまり、弱肉強食の原理甚だしい卑近なわが町の現象と地球温暖化問題は関連しているだろう。

というわけで、昨日午後1時~4時30分までHN高校跡地に特別支援(旧養護)学校の建設を求める実行委員会が主催する記念講演会を聴講してきた。

昨年は、大学院の所在する町に転居したけど、それが破綻して1年後。
再びパラサイトで戻ってきたふるさとは、年々住みにくさや息苦しさを実感してきたネイティブ市民として障害児教育の現状を見過ごすことはできなかった。

受付で所属を記入すると、受付の男性が言った。
「ほうほう、障害者授産施設の方ですか。なるほど、是非、聞いていただきたいです。」
会場4階の大研修室前方窓際には、お馴染みの議員団の皆さんが既に着席していた。
臨席の母が仄めかした。
「あの人、K議員よ。挨拶すれば?」
「えっ・・・いいわ。」
ここぞ、というときにヘタレ根性がわなわなとおこってくるからしょうがない。

今回のゆきんこの大学院修了以来のミッションは、手持ちの名刺を有識者に撒き散らすこと。

実行委員会の第1部は、専らの活動報告会。
ふるさとに養護学校がないために、長年、障害のある子どもたちは隣接都市まで越境スクールバス
通学を余儀なくされてきた。
受け入れ先の隣接都市の養護学校の教諭たちが次々と登壇し、持ち時間10分という限られた時間で現状報告を行った。

共通しているのは、少子化にもかかわらず、昨今10年間に障害児の児童生徒数は年々増加している。
医療ケアを要する重度重複障害児と、多動児との共存が困難であること。
特別教室を間仕切りしたり、廊下や玄関に荷物を並べても教室が足りない。
道具の準備・片付けに時間がかかる。介助員や管理職が総動員しても職員が足りない。
全ての児童がトイレが足りない、間にあわずに、失禁してしまうなど正に弱り目に祟り目と言わんばかりのアウシュビッツさながらの光景が想像された。

なんといっても、これらの子どもたちは、過去10年私が保育現場でかかわってきた子どもたちが、
そのまま小学校へスライドして過去からの諸問題を山積して現在にいたっている姿そのままだった。

この窮状を世に訴えるさまざまな取り組みを活動記録として資料配布されていたが、
驚いたのは、2007年6月26日~2008年7月4日現在まで1ヶ月に8日のペースで定例の実行委員会、街頭宣伝、署名活動、議員申請を行ってきたことだ。

発起人の方々は、登壇の端々に「この市に養護学校がないことはあまりにも知られていなかった」と
述べていたことも印象的だった。









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