日常の当たり前の何気ないことの中に 「あっ」というささやかな発見を一緒に 味わってくれませんか? でも、もしかすると、見過ごしている当たり前でない大発見かもしれません。
それでも、人生にイエスと言う
2005年10月12日 (水) | 編集 |
正午のニュースでは、
北朝鮮拉致被害者のジェンキンス氏の告白が
放送されている。

その頃、ある株式会社から電話があった。
「ビデオリサーチ」という会社だ。
1ヶ月くらい前に、電話があった。無作為抽出で、わたしに
アンケート協力を依頼する内容だった。
今日は、その資料が手元に届いているかという確認と、
22日までに記入して返送して欲しいという内容を
女性担当者が告げてきた。
わたしは承諾した。

わたしは、今日もなんとかこうして生きているし、
穏やかな日常を迎える。表面的には・・・

人生にはいいことばかりではない。
マスコミで被写体になる人や、著名になる人々が
決してしあわせな運命を背負わされた人々だとは
思わない。

わたしは、昨日のI先生のコメントを反芻していた。
「しばらく、タイムアウトしよう。」
困らせることは、わたしの本意ではない。
どんなに多忙で、辛い思いをしてがんじがらめになっているのか、
文面は至って冷静でも、本当は怒っているんじゃないかと思った。

そして、現場になかなか戻りたくないのは、
I先生のコメントからわたしなりに読み取った
メッセージだ。
「結局、自分の人生は自分で選択し、自分で責任をとって
いかなくてはならなくて、専門家にだけ依存するな。」

日本の世の中の諸々のことが、あまりにも
「あなた任せ」になりすぎたのだろうか。
自分の唯一無二の人生さえも。

わたしは、自分の人生の何を選択してきたのだろう。
いつも周りの人々が邪魔をして、無理解だとひとりよがりに
嘆いてきたように思う。

大学院に入ったはいいが、わたしには目的が見えてこない。
毎週火曜日は、一番習いたかったABA(行動分析学)特講の時間なのに。
昨晩夕方6時過ぎに自宅を出て、電車の中で
V.Eフランクルの「それでも人生にイエスと言う」を読み始めた。

「こんにちでは、行動をおこすどんな動機であれ、それは、
ひたすら信じて身を任せることができるような進歩というものが
ないところから生まれるからです。
それはまさに、何が進歩するのかということ、
どれだけ進歩するのかということが、われわれひとりひとりに
かかっているからなのです。これに対して、一般的な進歩はせいぜいの
ところ、技術の進歩にしかないということです。
この技術の進歩こそ進歩そのものであるかのような強烈な
印象がありますが、それは、ただ、私たちがちょうど、
技術時代に生きているからにすぎないのです。
わたしたちは、悲観主義にもとづいてしか、行動を起こすことが
できません。懐疑的な態度をとってはじめて、なお何かしようと
手をのばすことができるのです。それに対して、従来の楽観主義は
わたしたちをなだめすかすだけです。

ナチス時代の若い世代は、ほんとうの理想像をもつことが
できませんでした。いまではもはや、当時若い世代が抱いていた
理想像を抱くわけにはいきません。
その際、ある意味で
不公正な事実があることを隠しきれません。
よりにもよって、いちばんよくある犯罪者の汚名を着せられる人々のなかに、
道を見失った理想主義者
が必ずといっていいほどしばしば見出されるのです。
逆に、彼らよりももっと用心深く、後になってから彼らに反対する列に
加わる人々は、日和見主義者だったのです。
両方の側に対して身を守ろうとした人々、そして今ぬくぬくとしていられるのは、まさにそういう人々なのです。
この世代は、あまりにも多くの外的な、そしてその結果として
内的な崩壊を体験しなければなりませんでした。
それは、一世代が体験するにはあまりにも大きすぎるものだったのです。
ですから、この世代にはもう、そう簡単に理想主義や情熱をあてにしてはならないでしょう。」

今まで、神様のように、あるいは「幸福の王子」のように、
自分勝手に、I先生のことを信奉してきた。
先生の言い放ったコメントで、わたしは対体験的なイメージの中に
囚われていた。

7年前、あの大学の研究室の断崖から突き落とされたかのように。

行き場を失ったわたしが手に取った、アウシュビッツの生き残りの
精神科医のこの文章は、ABAよりもずっと納得できて癒される気がした。

どういうわけか、眠りに落ちるのにわたしは時間がかかって、
考えても仕方のないある種の強迫観念にとり付かれそうになって
いる気がした。
フェンスの外側に出てしまった今、
保育所の中の子どもたちは囚人に、保育士は監視人に
私の目には見えてしまうのだ。
わたしが、監視人つまり、担任から指示・命令された通りの保育は、
わたしのやりたくない理想に反した保育であることの方がずっと多かった。
決められたとおりのルールに則ったルーティーンワーク。
誰が決めたんだろう?
一体いつまで、どこまで、従い続けていなければならないんだろう。
どうして自分のたった一度きりの人生なのに、決められなくては
ならないんだろう?
明日のしあわせなど、確約されていないのに。

わたしが、ハローワークに容易に足を向けたくないのは、
そうした絶望感が押し寄せてくるからだ。

それでも、今日はいいお天気だし、昨日は雨だという理由で
行かなかったから、意を決して、出かけようと思う。
エリクソンの宿題もプリントアウトして、
時間があったら、海を見に行こう。

大学院に出かければ、いい雰囲気の人間模様がオンエアされている。
先週と同じく、わたしは同じゼミ生のNさんの隣に座った。

先週注文した、「行動分析学入門
(産業図書 杉山尚子、マロット他著1998)が届いていた。
注文していた社会人学生たちが、順番に代金を払ってそのテキストを手に入れた。
本体価格は3600円なのだが、指導教官のF先生から直接購入で
消費税込みの2割引で3030円支払うのだが、わたしの財布には、
小銭が一枚もなく、おつりが出せる学生が次々と支払っていく傍で、
その様子をオロオロと見ているところを、口角をあげて
F先生はしばらく見ていた。
「誰か、小銭もっていないかね。」
「すみません。何か買ってくずしてもらえますか?」
わたしは廊下へ出て、自動販売機でペットボトルのSAPURIを
買った。
戻ってくると、
「あ~、ごめんなさい。やっとお釣りできたんです。」
「あら~!」
わたしは、ズッコケポーズをとった。

お金を払っても、欲しいものが手に入ると自然に笑みが
こぼれるものだ。

I先生に直接習えなくても、その上司にあたるF先生の気さくな
授業にわたしは、大満足で、やっぱりニヤニヤしていた。
ページをめくると、具体的な症例のシナリオの文字が躍っていた。
本当は、ドロドロしているはずなのに、ABA関連の本は、
わたしにはコミック的な作用があるようだった。

今日は、第1章と第2章の要約をF先生のゼミ生さんたちが、
発表した。
「それは、ちょっとちがうんじゃないかな~?」
とF先生の面白そうなトーンの突っ込みで、クラスのみんなが笑いの渦。

「何か質問ありますか?」
わたし挙手して質問した。
「この本はマロット先生の著作ですが、ABAの方法に流派はあるんですか?」
「ありませんよ。誰がやっても同じです。」
本当は沢山答えてくださったのだが、質問すれば、答えがもらえる。
それが、わたしには大満足だった。

26ページ「循環論を避けよ」は、なかなか笑える。
「どうしてネズミは水を飲むの?」
「ネズミは水を欲しがっている。」
「どうして水を欲しがっているとわかるの?」
「ネズミが水を飲んでいる。」

単純に面白いと感じさせてくれた新しい学問
それが、ABAだったのだ。
これを極めると、誰でもシナリオライターもどきになってくる。

わたしは毎週開いているというF先生の
ゼミ見学をさせてもらえないだろうかと目論んでいた。

さて、今日は早めに身支度しよう!
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2005/10/12 14:19 | 大学院 | Comment (0) Trackback (0) | Top▲
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