こころの知能指数

今日は、旧友の誕生日だったので、グリーティングを送信した。
毎日見ていたお気に入りのブログにも初めてコメントしてみた。
こんなささいなことでも、元来小心者のわたしには、
実はかなり勇気の要ることなのだ。

わたしは、裏腹に大きな夢を密かに抱いていることもある。
たまに大きな夢を持っているんだな~と感じさせてくれる
実在人物のスケールの大きな話に惹かれてみることもある。
ないものねだりかな?
小さくてもいいから、夢を実現させるということに
憧れを感じるわたしって、
「ナルシストなんじゃない?」
「頭の中が夢見る夢子」と稀に言われてしまうこともある。

昨日印象に残ったドキュメンタリーは、
16歳で召集され、戦後27年経ってフィリピンの奥地から
生還した日本兵小野田さんの生涯だった。
 その後、経済成長で大変貌を遂げた日本の
マスコミに晒された挙句、小野田さんは、
ブラジルに移住し牧場経営を軌道に乗せ、現在も
80代にして日本とブラジルを往復して活躍中である。

夜は、沖縄戦で犠牲を払った読谷村の集団自決の
生き残った人々の体験ドキュメンタリーを視聴した。

「同じ体験をした者にしかわからない。
だから、今まで誰にも語らなかった。」

なんということばにできない重みのあることばだろう。

わたしにも、嘗てそうした体験と心理があった。
「どうせ、話したって誰にもわからない。」

だからといって、幸せになってはいけないだろうか。
楽しさや面白さをその後の人生に見出していくことは
不可能だろうか。

昨日から、今日にかけてダニエル・ゴールマンの
「こころの知能指数」を読み進めてきた。

「EQって知っていますか?」
5月のある月曜日、サテライトの講義で
久しぶりにその単語を耳にした。
「情動のハイジャックって憶えてる?もう一度
読み返してごらんなさい。」
T先生が諭してくださったのがきっかけで読もうと思った。

戦後の経済復興とともに、学歴神話があり、
IQの高い一部の人々だけが、「勝ち組」と称されている。

海の向こうから、「カトリーヌ」が去ったあとに、
車を持たない逃げ切れなかったマイノリティの人々の嘆きが
伝えられてくる。
また別の番組では、党首が角突き合わせて、マニフェストを
闘わせている。

わたしが、はじめてこの本を見たのは、
1998年当時に教えを受けた業界では最も有名な
ある大学教官の研究室の本棚だった。
わたしにとっては、キャリアアップを目指しての進学だったのだが、
結局、そこからドロップアウトしてしまったという悔恨が
どうしても払拭できずにいた。

あの当時と現在、このEQという本が、わたしの
失敗に次ぐ失敗とをつないで、慰め、励ましてくれる。
教官の視線が恐くて、父親のようにあまりにも尊大で
いつも頑なに強張っていた自分が歯痒くなる。

雨が降ってきた。この本読み終えたら
図書館に返そうと思っていたのにな。


今の保育所でも、どこの保育所にもいわゆる
特に理由もなく、僅か1~2歳ですぐに噛み付いたり、
叩いたりして保育士を唆してくる子どもの存在が
どうしても気になる。
そういった子どもは、ニコニコ機嫌のいい子どもに比べると正直、
可愛くなく疎ましい。
しかし、そうする彼らは恐らく親から愛されていない
被虐児であることを、わたしは薄々察知するのだ。

正午にラジオで聞いた社会福祉セミナーの
「児童虐待」によると
被虐児は、「大人は信用できない、危険な存在」という
認識があり、これに当てはまらない、
「優しくて思いやりのある大人」を敢えて
ターゲットにして、わざと困らせたり、攻撃することを
執拗に繰り返してくる。
そして、大人の堪忍袋の緒が切れて
案の定、叱られたとき、彼はこうして間違った安定をする。
「やっぱり、大人ってみんな悪い奴なんだ。お前もか」

保育所を転々としながら、なんで、わたしだけが
大人になっても子どもたちにこんなにいじめ倒されているのか、
その訳がわかった。

こうした子どもたちが、増え続けている
わたしたちの社会のEQは、一体いくらだろうか?
そうやって、常に何かの評価システムに縛られてるのも
辛い現代社会だなと思う。

友人から電話がかかってきた。
フランクに自分の言いたいことが言える。
相手の言い分を不快感なく聞ける余裕のある
関係が嬉しい。
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