はじめましての親族会

結婚して4ヶ月が経過した。
うだるような猛暑の3連休の中日の昨日午後
1時から4時すぎまで、P家の親族会に出席した。

出席した親族はP家の人々が9名、ゆきんこの親族が5名
Pさんのご両親の主催で、親族同士の親睦を深めようという目的で行われた。
挙行にあたり、殊にP家では過去から現在に至る諸々の清算の意味合いも込められた親族会となったようだ。

ゆきんこの親族も同様で、2000年以降喪服づきあいが主で、従姉妹のKさんが2児の母になったことくらいだろうか。
激減した私の親族の参加者は、母の長姉、母の次姉の娘婿(義理の従兄弟)Yさん、母の妹、母、私


地元の商工会議所の道路を隔てた向かいの料亭に定刻よりも早めにロビーに集まった初対面のPさんの弟夫婦と叔父さん叔母さんにまずは一礼してご挨拶した。
「はじめまして。ゆきんこです。」
「ゆきんこさん、事前に打ち合わせしておこう。」
「はい、お義父さん」
意気揚々と張り切っているPさんの御父さんが(一応)新婦の私に耳打ちした。

私は母の姉妹が集まるソファに連絡事項を伝えた。
「Yさんをどうやって紹介したらいいのかな?」
「そのままでいいですよ。」
「2番目の姉の娘の婿」
「私が6歳のとき、結婚式でブーケを渡しました。」
「そうそう。」
「随分長いおつきあいですね。まさか、私が結婚するなんて思わなかったでしょう。」
「いや、いつするのかな〜と思っていたよ。なかなかいい男じゃないか!」
「でしょ?前に青い英語の原著を紹介したこと覚えていますか?あの本を日本語版にするために彼が貢献したのです。新刊して今日でちょうど1周年なんです。」
「ああ、あの英語の本を彼がね。で、今どこに住んでるの?」
「双方の実家で週末婚ですよ。といっても、土曜日の午後から数時間程度。
新しい苗字で名刺も作ったので是非、アクセスしてください。」
元公立中学校校長で、海外勤務経験もあるYさんも名刺を私にくださった。
「今は、ここでヤクザな仕事をしています。」
その肩書きは中高一環の私学のリクルーターだ。

教育関係者の何気ないことばは危険だ。
けれども、母も私も縁続きのYさんの教育界における実績が、Pさんの前途を後押しするのに強力な
助っ人になりそうだと予感していた。

しかし、そもそも人付き合いの苦手なPさん
こういうかしこまった礼服つきあいは一番苦手で逃げ出したいシチュエーションと想像された。
親族といったって初対面では打ち解けるのに今すぐってわけにはいかない。

「去年、一緒に暮らし始めたときには、Pさんは六甲山かどこかの山に登って二人だけで結婚式をするのが理想だと言っていたのですが、結局はそうはならなくて・・・」

両親族ごとに「祝い鶴」というお菓子と抹茶をいただいて、4階の予約室へ移動した。
縦長のテーブルに向かい合い、年功序列で親族が向かい合って着席し、末尾はPさんのご両親という
位置に勢ぞろいした。

双方の親族を紹介し、Pさんがご挨拶
「先輩である皆さんに教えていただき、温かい家庭を築きます。」

多くの新郎新婦が親族の前で、当たり前に宣誓するのだが、
私の場合、自分自身が主人公とか、慶びごとの席にいることにものすごく違和感があった。
「温かい家庭ってなんだろう???」

私の親族は存命者よりも他界した人々の方が多くなってしまった。
その死に様には大なり小なりの憂いが残っていたし、生き残った親族は私とPさんの行く末を案じて
いることがわかっていた。
その最大の理由は、Pさんの現在の境遇が両親が結婚した当時の状況に類似していることにあった。
特に母より10歳年上の大正生まれの長姉のSさんは、15歳にして妹たちの母親代わりを務めてきた。

Sさん自身の結婚も決して順風満帆ではなく、夫が失業中には生活に困ったらしい。
また、母は父と結婚したくなかったのに、母親代わりのSさんが父との結婚を推したので、
結果、母と私に労苦をかけたことに罪悪感をもっているようだった。
結婚相手次第で女性の後半生が左右されることをゆきんこの叔母たちは明言しないが、心配してくれているのだ。

「ゆきんこさん、今はどんなお仕事ですか?」
向かいに面して座ったPさんの2人の弟のお嫁さん同士で談話した。
「障害者の方々と一緒に働き、支援する施設です。私の担当は重度の方で視覚障害もあって結構大変です。それ以前は障害児さんの保育士でした。」
「保育士さんの方があっているんじゃありませんか?」
「その方がキャリアは長かったからね。でも、保育士の方が楽かといえばそうでもないですよ。
私は4歳児クラスが多かったけど、けんかや物の取り合いが多くて仲裁するのはとてもストレスフルだった。おまけに子どものけんかに親が出るとますますややこしくなってその方がしんどかったですね。」

P家にとっては、間もなく3歳になる姪御さんのYちゃんが唯一の子どもで、彼女に大人たちのの視線が一挙に集中攻撃だった。
最近の少子化のなかで育った子どもたちは否応なく大人の溺愛や慰めの対象になるらしいし、
初対面の嫁同士の場合、話草にはYちゃんがもってこいだったので親睦の第1歩にはなったようだ。

途中、お義父さん詩吟やお義弟さんの「千の風になって」が披露されたのだけど、
それにもかかわらず、一見和やかな親族会が私にとっては幻のように感じられた。

夕方、ゆきんこの親族は早々に立ち去りそれぞれの居宅に帰っていったが、
Pさんの家族と、ゆきんこ、母がロビーでしばらく立ち往生となった。
Pさんの弟さんが疲れてダウンしてしまったのだ。

「ゆきんこさん、どうする?今から実家に来る?」
「・・・いいよ。私はもう帰るね」
「じゃあ、家まで車で送ろうか?」
「今から母と買い物に行くの。それからバスで帰るから。ありがとう。」

誰のせいでもないけど、P家の団欒に加わるにはその瞬間に躊躇いがあった。
母と私だけの寂しい母子家庭で育ったのだから、
やっぱり自然、私はPさんとPさんの一族と過ごすよりも母を独りにしたくなくて、帰ることにした。

子ども時代の原風景が蘇った。
両親の離婚後も父の姓を名乗り続けてきた私に、両親族に対する帰属感を持てずにいた。
私が親族の一員として認められていたと自覚したのは、Pさんと結婚したからだ。

親族間のみにくいあひるの子
子ども時代の原風景は、結婚してもしなくても痛くも痒くもない状態を維持しておきたいという
心の防衛線を張っていた。

そして、明らかにPさんの生家と私の生家や家族感覚のズレを感じていた。
そのズレというのは、私の場合、Pさん自身と結婚したと思っていたのだか、
Pさんの家族の一員になったという自覚がまるでなかったことにようやく気づいたからだった。
Pさんも私もパラサイトシングルと何も変わらない暮らし振りだ。
誰もがPさんと私の奇妙な結婚にノーコメントだった。

きっとPさん一家は、名ばかりの新妻などいなくても元の家庭の温かさや明るさを取り戻していけるだろう。



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4ヶ月目の授産施設

「ワシとあんたの仲じゃから・・・」
という接頭語で、ゆきんこのヘタクソな仕事ぶりを温かく見守ってくれる昭和7年生まれの年配者のA氏と、週末の送迎者の中でぼやいてみた。

独身時代は、こういう台詞はセクハラだと目くじらを立てていたが、ヘタレモードの時にはどうでもいいですよ〜と投げやりな七夕も去った7月第2週。

「結局、どんな仕事も楽じゃないが、人様のめんどうをみる、それも障害のある人なんていうのは、
まあ〜、余程善良な人か、バカしかできんよ。」
その自然体のおじさんの口調が、やれやれと利用者さんを送り届けた私をフッと笑わせてくれる。

「Aさんは運転士のお仕事をこれまで続けてきてどうでしたか?」
「ん?わしの場合は、転職のときには自分が潮時だと思ったときに、ちょうどうまい具合に他から誘いがあったんだよ。そのときの仕事が辛くても転職先を探すことで乗り切れたんじゃな。」
「ふ〜ん・・・そうですかぁ」
「どうしたんじゃ?なんか、しおらしい返事じゃな。辞めるのか?」
「いえ、辞めたりしませんよ。」

試用期間3ヶ月が経過して、職員の個人本採用契約を受ける時がきた。
初番が、私で利用者さんたちを送迎者で見送って間もなくの午後4時過ぎ
常務理事のM氏と相談室で面接した。
約30分間、殆どM氏の一方的な発話で私は無条件に「はい」と応答するだけの契約だった。
つまりは、「新設の授産施設は3ヶ月目にして赤字経営状態なので、ない袖は触れない。支援計画内容を見直し、しっかり儲けよ。」との仰せである。

しかし、カンタンにハイと返事できないのが、重度重複障害者の吹き溜まりであるわが☆班。
障害者更正施設で長年貢献してきた熟練支援員O氏への期待と希望は消失寸前である。

利用者一人一人が問題行動を噴出させるか、あるいはトイレを何往復するだけで1週間がヘトヘトになる。
それでも、☆班だけの自己満足かもしれなくても、利用者のみなさん方は、O氏とゆきんこの支援に
一言も文句を言わず、個々には改善振りを見せてくれ、保護者との連絡ノートにも朗報を伝えた。

O氏がたった一人で100坪近くの農園の畝上げから日々の畑の手入れを大型農耕機具もなく、正に
戦後じゃないの?という鋤・桑を人力で耕す。
農耕具や種・肥料購入の請求をすれば、事務方に「経費の無駄遣いだ」とお小言を言われるので、
自分の給料から材料を購入する。
耕している間に、誰かが逃走しては連れ戻す、もしくは逃走しないように見守る、その30分以内に誰かが失禁する、トイレ誘導するという有様だ。

トイレ誘導といっても、車椅子の身体障害者2名を含む☆班は、畑から施設内への移動に少なくとも
3分、靴の履き替えに3分、最後にトイレ着脱し用を足すのに10分・・・
これを4人分やっているわけだ。

昨日も、登所してすぐ女性の利用者をトイレ誘導したところ、15分以上もかかってしまった。
その間、残りの5名の利用者を支援者が待機させなければならず、畑の収穫作業がオジャンとなってしまった。
「判断ミスだぞ!!」
「すみませんでした」

6名のうち、1名は重度の自閉症でどうやら水中毒症状も呈している。
うだるような暑さ・高湿度ともなれば、彼はアトピーもひどくなるのでイライラ感も増幅し、それに伴って、渇水と排尿を10秒単位で繰り返す。
ついでにトイレで水遊びやマーキングで気分転換するからトイレはアンモニアの臭気を帯びて水浸し。

支援員よりも大柄の彼が、昨日の午後も「何気に」ゴンゴンと頭を叩いたり、壁に頭を打ち付けたり、手噛みを始めたら、自ずと狂気めいた目つきに変わった。
他害を懸念して施設長や看護師も駆けつけて、彼を宥めたり、精神安定剤を服用させるなとの対策をとることになった。

でも、もう遅かった。
「もう俺はきれた」
「俺の知ったこっちゃない!」と主担のO氏は言い放った。
その日の個人面接でO氏は自身の力量の限界を理由に、常務理事に正式採用の契約を断った。

たったの3ヶ月でO氏の勤労意欲を台無しにしてしまったのには、組織力の稚拙さにあると考えている。
赤字スタートの新設の授産施設内で、他グループの自立部門や就労支援部門の支援員が実にシニカルなのだ。
喩えていうなら、他のグループはインドなどの新興のアジア諸国だが、☆班といえばアフリカさながら
という様相。

施設長には「掃除して何か作業考えて」といい置かれてあわてふためく始末。
午前中には、地域の支援学校から教諭と保護者が見学にくるから、「やってます、がんばってます」と
いう格好を見せないといけないのに・・・
「すみません。今、畑から帰ってきてクールダウンしてます。」
机の上には何もなく、もの言えぬ利用者さんたちがじっと着席しているところをお目にかけただけだった。

支援者は、この3ヶ月かけてようやく利用者さんたちを静かに一定の時間着席しているようにトレーニングにはこぎつけた。

しかし、それだけじゃ「なにやっとんねん」という冷淡な評価しかしないのだ。
この評価を下すのは他でもない他グループの支援員だ。

油断すれば支援者が目を離した隙を狙って、笑いながら利用者が別の作業室へ走っていく。
別の利用者がトイレに駆け込み、下半身裸で佇んでいる。
やることなすことが全て職員間でのバッシングの対象。
弱り目に祟り目でO氏はGW明けから腰痛や不定愁訴をこぼすようになり、とうとう辞職の声明となった。

「質はともかく、施設はとりあえず回っていくことは回っていくさ。」
「Oさん、どうするんですか?」
「きかんといてくれ!俺はせっかくやりたかった仕事に戻れると思ってここへ来たんだ。
それなのに、みんなバラバラじゃないか!」
「障害者の施設なのにどうしてでしょう?」
「障害者畑で生きていく術や手の内を見せるわけないだろう?そうやって、残ったものが淘汰されていく世界なんだ。だから俺は、自分の限界を感じて辞めることが悔しいんだよ。」

確かに、職員間のコミュニケーションは支援者と利用者間に比べて希薄だ。
定時になれば、さっさと帰ってしまう。
そのひとつには、授産施設といえども営利目的事業があり障害者を抱えて遂行することだけでも、
職員がクタクタになっていて親睦するだけの余裕がないことにある。

施設長も、わずか3ヶ月のうちに職員間の仲の悪さがひいては、利用者の方々に影響して、悪循環に陥っていくことを懸念していた。

きゅうりや茄子・プチトマトも汗だくになってO氏が収穫してくれた。
でも、買ってくれる第3者がなければ、自分たちの給料で賄わなくてはならない。

O氏の辞職宣言に、明日の施設運営に一抹の不安を覚えた。
O氏を追い込んだ古株の職員にも少しは、言動に責任を感じて欲しい。
どうして、目も見えない、歩けない、ことばも話せない、生きていくだけでやっとの人に営利目的のどんな行動ができるのでしょうか?
そのための支援内容とは、何なのでしょうか?
私には何のアイデアも浮かんできません。
誰も教えてくれません。

まるで、薄氷を踏み外して餓死していくホッキョクグマや両親を亡くして途方にくれる孤児と似ていませんか?

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それぞれ夢は違っても・・・

午後6時。
淀屋橋駅から徒歩で御堂筋を梅田へと移動した。
アテネオリンピックが開催された4年前
S保育所で4月から海の日まで過ごした日々は、大阪市庁舎の前を通過したこの通学路とも重なっている。
当時、担当していた障害児のS君への個別支援をよりよいものにしたいと発起して、臨床心理士を目指し、大学院予備校へ10ヶ月間通学した。
おかげで、その年の11月無事、H大学大学院の幼年教育コースに合格を果たした。

無事にといっても、昼間は保育、夜週3回の予備校、土日は心理学のレポートという10ヶ月間はやっぱり楽ではなかった。
思い返せば、大学院在学中よりも予備校受験生おばさん時代の方が余程、苦学した気がする。

まずもって、30代半ばのハイミスが現役の20代の若者に交じって英語も心理学も基礎からやり直し。「もう、自分は結婚しないだろう。だったら、なけなしの自己投資でもう一度大好きな心理学を学びなおしたい。」
当時から今まで変わらぬリストラに次ぐ、リストラ。
福祉教育切捨て市政の下、転職の度に泣いてばかりいた使い捨てアルバイトおばさん生活にほとほと嫌気がさした。
自分なりに捌け口を求めての自己救済の突破口と、ABA(応用行動分析学)に対する未知への好奇心が、自分を支えていた。
淀屋橋から梅田まで運動がてらに徒歩で気分転換しながら交通費を節約した。
脇目も振らずに梅田の繁華街の雑踏を駆け抜けた。

・・・という苦労話はここまでにして
お初天神の社で一礼した。
「ん?ゆきんこと同い年の男性は、来年、本厄やんか」

旭屋書店に寄り道。
「図解 なりたい自分になれるNLPコミュニケーション練習帳」
(著者 木村佳世子 2008年5月28日初版 秀和システム ¥1000) を衝動買いしてしまった。

そこから、曽根崎警察署の裏側を通過して着いたところは、梅田花月があるビル内の居酒屋。
「久しぶり〜」
午後7時
にこやかに、大学院の幼年コースの仲間が集まった。

日ごろの鬱憤が溜まっているのか、話したいことが山ほどあるのか、
修了生も在学生も、それぞれの分野の話であっという間の2時間だった。
勝ち組の幼年教育現職正職員の先生は、相変わらず悠々自適振り。
それでも、大学院経営事情に詳しいK先生からは、学長をめぐる学閥抗争や、
通学に不便過ぎる田舎の大学が国費を打ち切られ、近々、取り潰しの対象になっていることをきいた。
恩師の諸先生方は、相変わらずの忙殺スケジュールに勤しんでいらっしゃる様子で、他大学へ退官する先生の話も出た。

修士号を取ったからといって、
猫も杓子も修士の時代。
幼児の絵画・造詣教育とアドバイザーを兼任する3年生のN氏は、先日論文の中間報告会で
後輩にあたる幼稚園のベテラン管理職から槍玉になったらしい。
なかなか、「主観的」であることが払拭できないと、一人よがりの発表ではたちまちに
「それは、あなたの偏見、思い込みでしょう?」という反論を受けてしまっては、
学会から正当に評価される論文とは言えない。

似たような研究報告だけでは、研究者も生き残っていけない時代だ。
「修士号だけではどうにもならないですよね。」
「そうなんだよね〜。」
「Mさん、今はどうしているんですか?」
「とりあえず、実績作りだよ。今、4社からリレー投稿の依頼を受けているんだ。大桃美代子とか芸能人の連載記事なんだけど。」
「すごい!有名人じゃないですか!」
「でも、単発の投稿じゃ仕方ない。無名のままで消えてしまう。今は、2つの大学で非常勤講師とアルバイトで食いつないでいるけど、子どもたちに家族サービスもできなくて我慢させているよ。」
「じゃあ、将来的には、博士課程ですか?」
「もちろん、50歳になるまでに、東京大学をね。」
「ええ!東大の大学院!?」
「だって、僕の研究分野は東大以外にないんだもの。」
「そうですか。私のイヌの研究だって、実は海外と東大しかなかったんですよ。
 先行研究には苦労したけど、お陰で、発表のときにはブーイングもなくて済んだのかも。」
誰も関心払ってないオリジナルな研究って突っ込みようがありません。
学校や幼稚園・施設でイヌを飼おうなんている発想は、管理職にはありませんからね。」

ここでも、結婚してから新しく作った名刺を差し出してみたが、メンバーは殆ど無反応に近かった。
というよりも、自分のはまっていることをいかにアピールするかが、大学院というところだから、
海外の保育事情、太鼓での表現活動、親子スポーツ健康学などなど、一口に幼児教育といっても、
所詮、研究分野も話題もちぐはぐだ。
共通点は研究することと自身の懐のバランスとに苦闘していることだった。

それでも、集まった7人の同士全員に名刺を配ると正面に座ったNさんが質問してくれた。
「最近、私がかかわったお子さんで、どうも場面かんもくらしいという情報を得たよ。
幼稚園から小学校へ入学したんだけど、症状が改善せずに御母さんが心配しているらしい。
今は、どんな活動をしているの?」
「専門家はいないですから、当事者と保護者中心の自助活動です。
主には、HPの掲示板上での情報交換です。最近では、遠隔地でのオフ会も開いています。」
「へえ〜、すごいね。もう一枚名刺もらってもいいかな?お母さんに紹介するよ。」
「一枚といわず、何枚でも!」
「いや、一枚で十分・・・」

久しぶりにアルコールカクテルを飲んだら、もう2次会へ行く気力はなかった。
仕事で遅れて参加したNさんは、明日も早朝から仕事だというのに、やっぱりタフだ。
独身組5名が連れ立ってお茶しにいくとお初天神通りの入り口で別れた。
朝から晩まで異動の多い、それぞれの半生を仕事に滅私奉公してきた女性たちは逞しい。
だけど、気がつけば働き盛りを子育て支援に尽くした少子化の張本人だったりするところがなんだか皮肉だ。

これから博士を目指すというTさんとJR大阪駅へ向かった。
「研究の道に入った以上、有名にならなくちゃ、生業にならないですよね。
私も根がミーハーだから、有名になるって大変だし、自分の人生を賭けてやり遂げられるって誰にもできないすごいことだと思います。
でも、そのために誰かを犠牲にしてまで有名になったのなら、私は単純に有名であることでその人が
尊敬に値する人なのかどうか、論文を書くことで、手前味噌な結論で説得力に欠ける論文は評されないことがわかって、反対にシビアに考えるようになりました。
自分だけのの栄誉欲のために家族や身近な人に犠牲を強いて掴んだ栄光なら、最後にはその恩恵を返すべきではないですか?
そうまでして、掴む栄誉なら無名でも地に足つけてがんばっている人の方が余程、尊敬できる人のように思います。
結局、修士までとってもどうにもならない高学歴プアカップルだからなんですけどね。」

なんだか私、お説教くさいオバタリアンになったみたい!?

名刺配りは一期一会

午後4時半
池添先生の講演が終わるや否や、私は躊躇う気持ちを押して名刺を一枚取り出した。

くるりと会場を振り返ると、見覚えのある女性の姿が目に留まった。
「こんにちは。S保育所の先生ですね?」
「あ〜!?」
「ゆきんこです。アルバイトでS保育所に勤務させてもらっていました。」
「久しぶりですね。お元気ですか?」
「はい。先生、今もS保育所に?」
名前は度忘れしてしまった保育士さんは、4年前当時、隣のクラスの担任だった。

「(ゆきんこ)先生はどうしていますか?」
「障害者授産施設に就職しました。それから実は、こんなことをしています。」
私は、池添先生渡したかったはずの名刺を差し出した。
「すごい〜!活躍しているんですね!」
「苗字も変わって結婚しました。」
「羨ましい〜」
「ところで、あの当時、先生が担当していたクラスにかんもくのお子さんいらっしゃいましたね。」
「ああ、Aちゃんのことかな?」
「先生、もし関心があれば、HPをご覧になってください。PCはどうですか?」
「あ〜、ごめんなさい。私、PCは苦手で殆ど使わないの。」

入り口で保育士さんと別れて、池添先生の姿を探したが見つからなかった。


次に向かったところは、同じフロア内の福祉図書コーナー
過去10年は失業の度に、出没していた癒し空間だったけど、
この4月から受付のスタッフが入れ替わったらしい。
お馴染みだった視覚障害の女性と聴覚障害の女性も異動になったようだ。

そこで、借りた本は、
『発達と障害を考える本 ふしぎだね!?言語障害のおともだち』
牧野泰美 監修 阿部厚人 編 ミネルヴァ書房(2007)

受付で貸し出しカード見つからず、もたついてしまった。
新顔の柔和な女性スタッフが、やさしい口調で言ってくれた。
「新しいのを再発行しましょうか?」
「そうですね。名前も変わりましたので・・・」
「住所・氏名を記載したものを見せてもらえますか?」
「じゃあ、名刺を・・・」
私は女性スタッフと車椅子の男性スタッフに渡した。
「かんもくって知ってますか?」
「いいえ。」
「では、折角ですからこの機会にもらってください。障害のある方々かかわる人にも、殆ど知られていません。HPもご覧になってみてください。」

私は借りた本の監修者と編者のプロフィールに目を留めた。
「牧野先生は特殊教育学会に所属しているんだ・・・」

午後5時30分。
H駅に向かい、タイムリーに到着した特急に乗り込んだ。

ちょっと気になる子どもと子育て

こうして、K養護学校、N養護学校、市内のK小学校特別支援学級の各学校教職員、保護者、当事者から3年前に廃校になったHN高校跡地に養護学校の建設を求める実行委員会の報告が相次いだ。

なかでも、インパクト大きかったのは、小学4年生のY君(アスペルガーらしい?)が、直々に橋下府知事に訴えた請願書だ。
「養護学校を作ってくれないと困ります。
アメリカに追いつけません。
日本は遅れています。
大阪はお金がないので、集めたらいい。
お金を出さない人もいる。
だから、募金箱を全国に置かなくちゃ。」

40万人都市のふるさとにひとつも養護学校がない。
因みに鳥取市は60万人都市で、市内に11校もあると報告があって場内はどよめいた。

休憩時間を挟んで、第2部記念講演「ちょっと気になる子どもと子育て」
−笑顔が輝く子どもが学べる場のために−
講師は、池添 素先生(京都「らく相談室」)

池添先生は、京都の子ども相談では、非常に名高い方であることは知っていた。
この10年バーンアウトしながら、毎年職場を転々としてジリ貧生活を凌いできた。
もう5年前に遡るけど、越境して1時間以上かけて京都の療育施設にも勤務していたとき、
担当したアスペルガーと診断された男の子の保護者が、「らく相談室」で個別相談を受けていた。

池添先生は、相談員の傍ら、仏教大学や立命館大学で非常勤講師としても教壇に立ち、半生を障害児の保護者の子育て相談に応じてきた御方である。

専門家の講演内容は、聞きつくしてきたつもりだから、重複している内容は割愛して、池添先生ならではのメッセージを語録しておく。
○障害とは・・・本当は自分の力で解決したいけれど、自分の力だけでは解決できない問題
 自分でもわかりにくい発達の課題を残しながら育っていく

保護者の立場から代弁する内容だから、時にはこんな発言も。。。

「う〜ん、ここは学校の先生や保育士さんたちもいるからいいにくいんやけど、、、
熱心な教師・保育士ほど『今しておかないといけない』と親を脅迫して追い詰める。
子どもが先生の期待に応えようとどんなに無理してがんばっていることか、
その反動で家ではクタクタになってしまっている。死に物狂いで、朝から支度して通学してくる。
どんなにしんどくても、どんなに遠くても学校が好きだから。」

「震災後に、宝塚の通園施設を訪問したことがあった。
当時は、避難所として使ったが、幸いハードとしての通園施設があったから
被災者はそこで生活でき、施設も再開することができた。」

「私たちは22世紀は生きられない。
子孫に託す未来の地球はどうなっているか、大人の責任を感じている。」